ギャラリー日記

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3月31日

今日で三月も終わり。

明日から4月というのに、まだまだ春の陽気には程遠い。
今夜から明日にかけては、もしかすると雪が降るみたいだ。

開花宣言が出たが、4日のお花見で桜が見れるだろうか。

山本麻友香・岡本啓の個展も明日で終了。

山本展は2点を残しほぼ完売。
岡本展も山本ほどではないが、まさか売れるとは思わなかった超極小の1CMの作品を含めそこそこ売れている。

二つの展覧会の展評をいつも紹介いただく紋谷氏がギャラリーめぐりノートの印象記 に書いてくださったので、転載させていただく。

山本麻友香展

展覧会タイトルは、
−クマ、パンダ、羊、カエルに、イヌ、白馬−。

不思議な展覧会タイトル。

動物の被り物や着ぐるみを身に着けた、
子供(中性的ですが男の子のようです)が
大きく描かれています。
個性は表現されず、わかりやすい可愛さが抽出されています。
筆跡が残らない薄塗で、
立体感、素材感を追及する写実性は希薄で、
ややグラフィカルな印象。
具体的な背景は描かれず、
シチュエーションは語られません。

可愛いなあ、では済まされない何かが潜んでいる様です。
人間の動物的な部分。
話し始めてから約7歳までまでの子供が
ごっこ遊び(pretend play)に没頭し始める不思議さ。

子供と動物が重なることで、
何かが活性化され、
原始的な息吹が蘇生するようなイメージが生まれます。 そこには、夢の一時的な儚さもともなう。
そんな印象でした。


岡本啓展

展覧会タイトルは、−minima(ミニマ)−。

普通、写真で撮った画像(ネガ)を、
陽画(ポジ)として印画紙に記録しますが、
作家は写真を撮るという行為を経ず、
薬剤・射光時間・手作りレンズなどの操作を印画紙に加え、
色・形・模様を印画紙上に浮き上がらせるという、
独自の手法を用いています。

印画紙という基材において写真的ですが、
制作コンセプトは完全な抽象画です。

キャンバスに絵具を筆で描くという、
作家の発想と結果が直結する画法と異なり、
偶発的、恣意的な要因に左右されそうですが、
その分、自然の振る舞いをそのまま、
印画紙上にすくい取ったような雰囲気が生まれます。

見えないけど、実は起こっている美しい現象に、
色、形を与えてみた。
そんな印象でした。

3月30日

私は政治的には保守だが、といって極右ではなく、中道右派と言ったところだろうか。

自民党一党独裁は良しとせず、新自由クラブなどができた時は大いに期待をしたものである。

ところがそうした新しい保守勢力が離合集散し、今の民進党になってしまった。

当時の面影はなく、左派の社会党や民社党と手を結び、ついには共産党と選挙協力をするまでになってしまった。

そして今の政局を見ると、民主党政権時代の失政を棚に上げ、自民党の揚げ足取りばかりに終始し、自民に対抗する政策を打ち出して、国民の理解を得ることをしない民進党にはただただ呆れるばかりである。

これでは支持率は下がるばかりで、選挙に勝てるはずがない。

小池支持が広がるのも、自民党では飽き足らず、とはいえ野党がこの体たらくでは、新保守の小池新党に期待が膨らむのは自明の理だし、大阪維新の党が躍進したのもそうした新しい風を期待しているからだろう。

連日、森友問題で鬼の首を取ったように総理大臣をつるし上げるのは、見苦しくて見てられない。

忖度があったかと言えばあったに決まっている。

安倍夫人の名前がかぶっていれば、お役所も多少は気を遣うだろう。

安倍夫人を利用しようとしたのは、籠池のほうで、安倍夫妻は広告塔に使われたに過ぎない。

安倍夫妻の名前に忖度して、手を緩めたお役所に責任があると言えばあるだろうが、名前を使われた安倍夫妻には何の責任もないように思う。

謝礼をもらったかどうか、講演して謝礼をもらうのは当たり前で、それをとやかく言うなら、野党の議員は全て講演料を貰ってはいけないと言うことになる。

籠池と安倍夫人だからいけないという理屈は通らない。

また百万円を贈ったという事に関しても、本人は否定をしているが、百歩譲って、もしそうだとしても何が問題なのだろうか。

国有地を安く払い下げたことなど知る由もない安倍夫人が、小学校の教育方針に共感を覚え、建築の一助にと贈ったとしても、それが何の罪になることだろうか。

私の出た大学や高校でもでもしょっちゅう寄付の募集が来る。

私がもし寄付してもそれが良しとなり、安倍夫人ならいけないという説明を是非して欲しいものである。

要は手柄にも何もなるはずのない不毛な事案に時間を費やすのではなく、もっと大事なことに時間を費やしたらどうですかと言いたい。

小学校の認可も取り消され、補助金や国有地も返還ということになれば、認可や払い下げで姑息に動いた籠池に鉄槌が下されるわけで、国会でとやかく言うのはもう終わりにして実のある議論をしてもらいたいものである。

このままでは、ますます民進党から国民の心は離れてしまうと思うのは私だけだろうか。

3月29日

月刊アートコレクターズ4月号は猫特集「愛するにゃんこアート」

私は犬派で、猫はあまり得意ではなく、長くのお付き合いをさせていただいているお客様の家には20匹は超える猫ちゃんがいて、ほとんど放し飼い、たれ流し状態で、玄関の扉を開けると、目にしみ、むせ返るような異臭がトラウマになっているのかもしれない。

ところが世には猫好きが多く、コレクターの中には招き猫亭コレクションの「猫まみれ展」があったり、招き猫美術館があったりする。

猫の絵といえば藤田嗣治の猫が有名だが、他にも多くの著名作家が猫をテーマに描いている。

画廊でも猫展をやると多くの人が集まるようだ。

逆に犬展はあまり聞かない。

犬は絵になりづらいのだろうか。

それでも、私どもで発表をしている横田尚がNAOのペンネームでワンちゃんの肖像画を描いたところ評判がよく、もしご自分のペットを描いて欲しいという人がいたら、是非お申し出いただきたい。

今回の特集には、私どもの作家では服部千佳と呉亜沙、小浦昇の猫をテーマにした作品が紹介されている。

服部と小浦の紹介文があるので、転載させていただく。


服部千佳

服部の作品の見所は色彩のグラデーションの中から事物を浮き上がらせる手法にある。
その描く対象の事物は極限まで省略され、色と光の表現でそのかたちが現れる。
色彩に対する卓越した感性で、最終的に目指すのは光の表現なのであろう。
その質感は他では見たことがなく、何時間でも見ていることができる。
例えばこの絵、一本一本猫の毛が描かれていなくとも、この絵の前で、私たちはそのやわらかな猫の毛を見るだろう。

小浦昇

一ミリの中に25回、点を刻んで制作された超絶的細かさの銅版画です。
小浦の長いキャリアの中で昨年初めて発表された点描銅版画のシリーズ、新境地です。
その陰影の表現のために、気の遠くなるような回数の点を刻みます。
小さい画面の中に御伽噺の一場面のようなシーンが繰る広げられます。
超絶技法からなる表現の妙と、なんともいえない可愛さのハーモニーが見所。


猫は出ないが、服部千佳の新作展が4月8日から始まるので、乞うご期待。





3月28日

昨日までの寒さと打って変わって、今日は春の陽気。

4月4日に予定されているロータリークラブの花見も、雨さえ降らなければ絶好の花見日和になるが、雨男の最近は雪男の私が参加するのでどうなることやら。

今回の企画は、私の提案で企画されたもので、私の家からも近く、最近はサボっているが、いくつかある散歩コースの一つで、知る人ぞ知る、知らない人は知らないお花見の絶景ポイントである。

東京教育大農学部跡地にある駒場野公園、前田利為侯爵の屋敷跡にある駒場公園の桜を見物した後、東大駒場キャンパス内の、これも穴場の一つのフレンチレストラン「ルヴェ・ソン・ヴェール」にて昼食。

終えて、鍋島家の茶園があった鍋島松涛公園(この茶園で「松涛」の銘でお茶を売ったことから「松涛」という地名となり、現在は高級住宅地として知られ、安倍総理大臣や麻生財務大臣のお屋敷も近くにある)の桜も見て、鍋島家屋敷跡にある私どもクラブの会員の一人である戸栗氏の「戸栗美術館」を訪ねる。

先代の戸栗亨氏が蒐集した東洋陶磁器が展示されていて、今回は「開館30周年記念特別展・酒井田柿右衛門展」を見学する。

おおよそ3キロのコースを歩いて廻ることになるが、お年よりも多く、最後まで付いて来られるかがちょっと心配なのだが。

本来なら、駒場公園横の駒場民芸館の柳宗悦コレクショッンも廻りたいところだが、時間の関係もあって、今回はパス。

一昨年の横浜「三渓園」の時も雨だっただけに、何とか晴れることを願うしかない。








3月27日

桜の開花宣言は出たが、いまだ冬の寒さが続く。

桜も顔を出したはいいが、蕾を開くことができないでいる。

昨日は先週シーズン幕開けとなった河口湖のゴルフ場で練習ラウンドでもしようと一人で出かけたが、朝起きると外は一面真っ白。

夜から降り出した雪が既に10cmほど積もっている。

14日も雪が降った様で、15日オープンの予定が延期になり、お彼岸の連休には何とか間に合ったが、この雪ではまたしばらくクローズになりそう。

車も雪まみれで、雪を落としてもそのそばから積もってくる。

スタッドレスをそのままにしていたので、何とか山道を下りることはできそうで、昼には帰ることにした。

帰る前に、別荘と同じ施設内にあるホテルのレストランで朝食をとることに。

行ってみると満員で、中国、台湾、アラブ系の人でいっぱい。

台湾やアラブ系の人には雪は珍しいのだろうか、思わぬ雪に大喜び。

富士山が世界遺産になったこともあって、海外からの観光客が富士山を見に大勢やって来るようになり、以前は閑散としていた冬のホテルも大盛況。

4月の連休前には、台湾でお世話になっている画廊さんと友人たちを2泊3日で招待していて、丁度河口湖は桜の満開の頃で、真っ白な富士山と桜を見ながらゴルフを楽しんでもらうことにしている。

朝食を終えて、やはり同じ施設にある温泉に向かい、、一人のんびり露天風呂で雪見と洒落こむことにする。

ここの温泉はそれほど大きくない代わりに、時間により人数制限がされているので、混むこともなくゆったりと手足を伸ばすことができる。

雪にたたられはしたが、温泉につかり至福のときを過ごし、寒さに凍えた体も温まり、東京に帰ることにした。





3月25日

画廊の前のミニ公園が緑の環境デザインコンクールで大賞を受賞し、「おもてなしの庭」として生まれ変わり、区長さんたちも参列して竣工式が執り行われた。

木々の緑や野花はまだまだだが、暖かくなって、画廊の前が緑に囲まれた癒しの空間になるのが楽しみである。

ただ、茶室などがあれば別だが、「おもてなし」の意味がよくわからない。





3月23日

長年私どもで発表をしている伊津野雄二の彫刻展が長野・東御市の梅野記念絵画館で「湧きいづる光」と題して、4月9日から6月25日まで開催されることになった。

昨年の秋には、同じく私どもの扱い作家である望月通陽展がここで開催され、大きな反響を呼んだことは記憶に新しい。

彫刻一筋に制作を続けてきた伊津野も画廊での発表が主体で、美術館のような大きな空間で発表する機会がなかっただけに、どのような展示になるか今から楽しみである。

望月の展示も、与えられたスペースを存分につかい、画廊では見ることのできない素晴らしい空間を作り上げた。

前後左右から表現をする立体作品は、絵画以上に周りの空間との調和が必要となる。

と言うよりは空間を作品に取り込む力も要求される。 そうした意味で、今回の広い空間をどのように伊津野は取り込むのか、その試金石とも言うべき展覧会でもある。

立派なカタログも届き、収録された私どもが納めた作品を眺めながら、今一度そうした作品に息吹が与えらたことも、私どもの喜びでもある。

信州上田から山を上がった風光明媚なところにあり、美術館のそばには温泉があり、露天風呂から見る浅間連山の絶景もここの魅力の一つなので、是非お出かけいただきたい。








3月21日

先週の土曜日、私どもに10年ほど勤務した後、独立した寺島由紀の画廊・YUKI-SISが5周年を迎え、その記念パーティーが開かれたので行ってきた。

石の上にも3年というが、画廊は5年続けてやれれば一人前で、一つの節目を越えたのではないだろうか。

私も大阪の画廊に5年間住み込みで働いたが、寺島に比べると他所の飯を食うのは5年少ないが、この5年は中身の濃い5年で、10年以上に匹敵するような経験をさせてもらった。

われわれ業界が初めて経験した絵画ブームがあり、展覧会初日には長い行列ができたり、一年で価格が10倍にもなるような作家が続出したりで、画廊は我が世の春を謳歌した時代であった。

しかしそれは長く続かず、オイルショックという大恐慌が襲った。

価格は元の十分の一以下、それだけ安くなっても売れない日が続く。

最盛期には、版画、彫刻店などを含め支店を5店持ち、他に美術館、出版部、アートグッズ部門などがあって、従業員も80名を数えたが、あっという間に支店は閉鎖に追い込まれ、従業員も辞めていった。

私が退職した後、先代社長も亡くなり、自社ビルは売却を余儀なくされ、大阪のビルの一角に小さな画廊を構えるだけとなってしまった。

その後、私は10年父親の画廊を手伝い、先にも書いたギャラリー椿を設立したのは37歳のときであった。

私は大不況の最中に父親の画廊に戻り、そこでも借金の返済に追われる毎日が続いた。

経済の変動がどれだけ大きく絵画市場に影響するかを、短い時間に身をもって体験させられた。

そんなこともあり、独立後はまったく別物の自分独自が評価できる作家だけを扱うことを主是として、その後のバブル時代やバブル崩壊に惑わされることなく、現在まで細々ながらやってこられた。

寺島もなかなか抜け出せないでいる美術不況の最中に独立をしたことで、相当な苦労もしたことだろうが、5年という一つの山を越えたのは大したものである。

まだまだ画廊の名前が全国区にはなっていないが、独自の色を打ちだし、次を目指して頑張ってもらい、日本橋にYUKI-SISありきとなることを願っている。

3月20日

お彼岸で両親の墓参りに行ってきた。

明日は春分の日で、長男の誕生日でもある。

4年前にメールで誕生日おめでとうメールを送ったら、今日は「両親に感謝する日」ですと返ってきた。

うれしくて今でも心に残っているが 、私も両親の墓前に感謝の気持ちを伝えた。

私は新宿で父親が経営している椿近代画廊に勤務していたが、父親との考えの相違から画廊を飛び出し、新たにギャラリー椿を始める事になった。

まったくの勢いで飛び出してしまったので、徒手空拳・貯えもなく、しばらくはいわゆる風呂敷画商をやっていた。

家内に風呂敷ではなく、丈夫な布で大きな袋を作ってもらい、それを肩から提げて、そこに絵を入れて、あちこちのお客様を訪ねて廻ったことが、懐かしく思い出される。

人間土壇場になると力が出るもので、この時ほど必死に働いたことはなかった。

友人に一度絵を見せてくれないかと言われ、たくさんの絵を持って、友人の会社に行ったことがある。

彼は何も言わずに、持ってきた絵を全部置いていくようにと言ってくれた。

帰りの道で、涙を抑えることができず、その友情にただただ頭を下げるばかりであった。

そうした力添えもあって、ようやく京橋の地にギャラリーを開設することになった。

すぐそばに父親が親しくしている画廊があり、そこに父親はしょっちゅう来ては、私の様子を聞いて帰って行ったそうだ。

袂を分かったが、そこは父親心配でしょうがなかったのだろう。

私もようやく心に余裕ができ、今あるのは父親のお蔭と感謝することができ、親孝行も兼ねて、両親と私たち家族で、海外旅行をすることになり、両親は大変喜んでくれて、僅かだが親孝行の真似事をすることができた。

父親は今度はお返しで私たち家族を海外に連れて行くと張り切り、半年も先なのにトランクに荷物をつめて、旅行を楽しみにしていたが、病に倒れ、海外旅行の願いはかなわないままに翌年他界してしまった。

親孝行したい時には親は無しとよく言ったものだが、何分の一もの親孝行ができず、そのことが悔やまれてならなかっただけに、息子の感謝の言葉には胸を打たれた。

今日もお祝いメールの返信で、海外にいる息子から「パパさん、ママさんに感謝」というメッセージが届いた。

3月19日

台北の画廊から佐藤未希、岩田ゆとりに出品依頼が来た。

この画廊は、台北画廊協会の理事長とアジア・パシフィック画廊協会の議長を務めたリック氏の画廊・アキ画廊で長年チーフマネージャーだったジョオが独立して始めた画廊House・Artである。

台北市内から離れているが、コロニアル風の古い洋館で、一階がレストラン、二階が画廊となっている素敵な空間である。

他にも日本人作家に依頼が来ているようだが、この展覧会のタイトルは日本語に直すと「可愛くない展」である。

台湾では日本人の「可愛い系」を描く作家に人気が集まるが、敢えて「可愛くない系」を集めて展覧会を企画した。

流行を逆手に取った企画で、なるほどこういうアイデアを考えるとは、座布団一枚、あっぱれをあげたい。

私のところにも夏目麻麦をはじめ「可愛くない系」アーティストがたくさんいるので、この企画をパクリたいくらいである。

さてどういう結果が出るか今から楽しみにしている。








3月16日

今日からアートフェアー東京が始まる。

昨年は参加して大きい作品もいくつか売れて、そこそこの成績だったが、結局はいつも私どもにお越しいただくお客様に買っていただいていて、初めて買ってくださった方もそれきりで、後につながらない。

新しいお客様との出会いを期待したのだが。

そんな訳で、今年は不参加。

何人かの方からチケットをもらえないかと頼まれたが、参加しないので私の招待券しかなく、お役に立てない。

その招待券で、ファーストチョイスといって先行入場できるのだが、それでも多分混んでいるだろうと思っていたら、案の定フェースブックでその混雑の様子が投稿されていた。

その混雑振りに恐れをなして、行くのを止めにして、代わりにスタッフが行くことになった。

明日からは、フェアーの流れで、何人か海外のお客様がくることになっているので、それを待つことにする。

フェアーの会場に近い地の利をいかして、漁夫の利を目指す。

3月14日

ニュージーランドのカンタベリー大学に研究員として行っていた長男家族が今月末に日本に帰ってくる。

正月に私たち夫婦と娘家族でニュージーランドを訪ねたが、自然は豊かで、気候も温暖、日本のように人で溢れかえっていることもなく、あくせくもしていない。

こんなところで老後を過ごせたらと思うくらいで、息子も子供たちにとってはこれほどいい環境はないと言っていた。

行く前は孫はしょっちゅう熱を出しては病院に行っていたが、ニュージーランドではそういうことは一切なかったそうだ。

どこのレストランにも、子供のための遊び場があったり、テーブルの上にはお絵描き道具がおいてある。

周りの公園も広大な敷地の中にあり、昼を食べに行ったときも、大勢の子供たちがその中を嬉々として走り回っていた。

息子は大学のラグビー部の監督をしていることもあり、向こうの大学でもコーチをしたり、子供たちの指導もずっとしていたようだ。

何せワールドカップでも世界一のニュージーランドだけに、ラグビー環境も比べ物にならない素晴らしい環境で、日本では少ない芝生のグランドが当たり前のようにあるというよりは、無いほうを探すのが難しい。

オールブラックスの選手との交流もあって、私には誰だかわからないが有名選手とともに写っている写真を送ってくるが、息子のコーチングにも大変いい勉強になっているようだ。

日本と違うのはまず選手を怒らないそうだ。

自由に伸び伸びやらせる環境が整っているのだろう。

そうしたことも子供たちの教育にも反映されていて、ストレスのないことで、病気もしなくなったに違いない。

オーストラリアで医学の基礎研究をしている娘もそうだったが、大学入試も日本のような一発勝負ではなく、一年間のトータルの成績で、全国で上から順番に行きたい大学・学部を選び、そこが埋まっていたら、次の希望の大学や学部を選ぶ仕組みになっている。

インフルエンザにもかかれない日本の受験生とは大違いである。

もちろん良いことばかりではないだろうが、人が心豊かに暮らせる環境は整っている。

羊のほうが人間より多いニュージーランドだけにせかせかすることもなく、のんびりと暮らしていけるのだろう。

3月11日A

東日本大震災から6年を迎えた。

丁度あの日も展覧会の初日だった。

高崎在住の柳沢裕貴展が開催されていた。

突然ドンときた。

激しい揺れで、左側の壁はいくつかの扉状になっているのだが、全てが開いてしまった。

幸い飾ってあった絵は落ちずにすんだが、これは危ないということで、みんな外に避難するように言って、慌てて外に出たが、道路も揺れているし、怖かったのは隣のビルが大きく揺れていることだった。

そんな最中、外に出ていたお客様がもう一度中に入っていく。

そして出てきたと思ったら、あそこに飾ってある絵を買いますと言うではないか。

まさかと思ったが本気だ。

この大きな地震の中で買う絵を決めたのだから驚いた。

作家の柳澤が来たら伝えようと思っていたが、電車に閉じ込められ、画廊には来ることが出来なかった。

隣のトンカツ屋さんでは、90を過ぎたおかみさんが、火を落としたばかりの油の鍋をひっくり返らないように抱きかかえている。

火傷するからとみんなが言うが、離さない。

さすがおばあちゃん根性が違う。

ようやくおさまって画廊に戻ると、入り口の扉の上のガラスが割れていた。

買っていただいたのはあり難いが、お客様は危うく怪我をするところであった。

こんなことが思い出されたが、東北三県ではいまだいまだ復興が進まず、行方不明者も2500人を超えるという。

原発で避難を余儀なくされている人も多く、そうした人たちにとって、災害はまだまだ続いているのだろう。

この前、福島や岩手のロータリアンの話を聞いたが、復興支援の物資は余るくらいあるが、これから畑や会社を元にするにはまだまだ時間がかかるという。

特に福島の方は何が辛いかというと、風評被害だそうだ。

福島で出来たものは、買わない・食べない・扱わないということらしい。

私たちに出来るのは物資やお金の支援だけではなく、被害にあった会社のものを買う、畑に出来たものを食べる、そうした些細な事から手を差し伸べていくことも、これからの支援につながるのではないだろうか。

一日も早い復興を祈るとともに、行方不明の方の安らかならんことを祈る。

3月11日

実に小さい。

岡本啓の個展も今日から始まる。

変わらず、レンズを通す写真ではなく、暗室で発光した光で印画紙を感光させて作るのだが、その表現がますます多様化してきた。

今回は極小と言っていいだろうか、これ以上は小さく出来ない作品まである。

大きな額に入った作品も、やけに大きいマットの中に切手ほどの大きさの作品が入っている。

昔に版画家の浜口陽三が豆粒みたいな版画を作り、大きな額にポツンと入れていたのが思い出される。

岡本は毎回こうして表現に新たな展開を見せながら、一歩一歩着実に進んでいる。

大阪での活躍も耳にしていて、今後のさらなる展開に期待する。








3月10日

大作もようやく完成して、明日から山本麻友香個展が始まる。

娘さんの受験や体調を崩したりで、個展の準備も大変だったろうが、何とか作品も揃い、私もほっとしている。

少しづつ作品も変化していき、今回の作品は多少フォーカスしていたり、顔にシャドーが描かれていたりで、子供の表情としては適切ではないかもしれないが、なんとなくアンニュイな感じがする。

子供に大人の感傷がかぶさって見えるから不思議だ。

既に到着している小品も人気で、今年に入り沈滞気味だった画廊に活気が戻ってきた。











3月9日

先日まで開催されていた前橋の美術館・前橋アーツ「前橋の美術2017」で展示されていた作品の中に目を引かれる作品があった。

木彫作品で虎が壁からぶら下がっていたり、はたまた洋服のごとく折り畳んであったり、牛がベンチの背もたれにシーツのように垂れ下がっているといった作品である。

ただの動物の木彫なら当たり前なのだが、どれもペロンとした布のようになっていて、ぬいぐるみのようでもなく、皮をはがれた敷物でもない、なんとも不思議な作品に見入ってしまった。

大島廣幸という前橋出身の彫刻家で、早速この展覧会の実行委員長の金井訓志さんに一度コンタクトとれないか聞いてもらうことにした。

そして早速昨日に画廊で会うこととなった。

私どもで発表している作家さんも偶々の出会いからうちで展覧会をやるようなことが多く、私は偶然の出会いを大切にしている。

資料を見せてもらうと、どれも興味深いものばかりで、ぜひうちで個展をしましょうということになった。

その前に、秋の台北のフェアーでも紹介することにした。

台北では木彫作品に人気が高く、舟越桂やうちの中村萌は大変な人気である。

恐らく台湾で展示すれば話題になるのは間違いない。








3月8日

後一ヶ月でヤングアート台北が始まる。

ぼちぼちとフェアー用の作品が届き始めた。

もう10年になるのだろうか、最初からこのフェアーには参加していて、主催の画廊さんにも大変お世話になっている。

ところが今回、事務局から今後ブースでのシェアーはしないでくださいとのメールが入ったので、驚いて主催の画廊さんにどういうことだとメールをした。

昨年のフェアーで、選考にもれた後輩の画廊さんから、フェアーでのお客様の注文を受けていて、制作してしまった作品があるので、私どものブースに飾らしてもらえないかと頼まれた。

親切心で少しなら飾ってもいいよとOKをしたのだが、それが誤解を生んだようだ。

その画廊さんはお礼もあって、手伝いを買って出てくれた。

ところが、本人がフェースブックに私どものブースをシェアーさせてもらっていると投稿してしまったのである。

それを見たのだろうか、出展画廊か、他の選考に漏れた画廊なのかわからないが、事務局にクレームをつけたというのが事の顛末。

それで、シェアー云々のメールが届いた次第である。

親切でやったことが、逆目に出てしまい、事務局もそれを真に受けてしまったのだろうが、最初から参加し、当初ほとんど参加しなかった日本の画廊にフェアーの誘致のお手伝いもしていただけに、事情も聞かずにいきなりメールを送ってきたことに腹を立て、今回は参加を見合わせようと思ったのだが。

メールで私の事情を知った主催者の画廊さんは、大変誤解があったとわざわざ私のところに謝罪にやってきてくれた。

私はこう見えても瞬間湯沸かし器みたいなところがあって、かなり腹を立てていたのだが、そんなことで今一度参加をさせてもらうことにした。

以前にも、韓国の画廊協会の内紛に巻き込まれ、あらぬうわさを立てられて、怒って参加を取りやめたことがあった。

この時も、画廊協会が謝罪に来てくれたのだが、その時は参加しないと更にそのうわさが広まりますよといわれて、自分たちであらぬうわさを立てたにもかかわらず、なんてことを言うんだとカッとなって参加を取りやめたことがある。

その年のフェアーは、韓国が一番景気のいい時で、初日に完売の画廊が続出したと後で聞いた。

短気は損気で、いたく反省したものだが、この年になってもなかなか性格は直らないもである。


出品作品・内藤亜澄





3月7日

11日から3年ぶりの個展「山本麻友香展」が始まる。

しばらく海外の個展が続き、日本では久しぶりの展覧会となった。

今回は不景気の日本に配慮してくれたのか6号、8号の小品が多く、日本のコレクターの方にはうれしい展覧会となる。

既に半分ほどに予約が入ってしまい、作品購入希望の方には申し訳ないが、ご希望であれば画像を送らせていただくので、お申しでいただきたい。

是非のご高覧をお待ちしている。










3月4日

ロータリークラブの仲間たちと自閉症の子供たちの展覧会が始まった。

仲間たちの作品は絵画や写真、書、鉄道模型など力作が出品された。

また所蔵品にも珍品があって、仲間内で盛り上がっている。

自閉症の子供たちの絵もなかなかの描写力で驚いている。

一部を紹介したい。

会員





子供たち





3月3日

本の紹介が続く。

知人の境新一氏が新著「アート・プロデュース概論」ー経営と芸術の融合・中央経済社刊を贈ってくださった。

境氏は慶応大学経済学部卒業、筑波大学大学院ならびに横浜国立大学大学院終了・学術博士で経営学を専門とし、現在は成城大学経済学部教授・大学院経済学経営研究科教授を務めている。

以前に成城大学の「総合講座」にて講義を頼まれたことがあり、、画廊経営について学生に話をさせていただいたことがある。

そんなことから、著書の中にも椿原弘也氏の画廊経営ということで一ページ半ほど触れていることもあって、著書を送ってくれたのだろう。

帯には、感動や新たな価値を創造するために、アートをビジネスに応用すると書かれている。

ビジネスにおいて芸術(アート)の必要性が増してきている。
その際に鍵となるのがデザインやブランドを通してアートをビジネスにつなげる「プロデューサー」の役割である。

アートプロデューサーの意義、必要な要件が解説されている。





3月2日

村上春樹の「騎士団長殺し」が2月24日に発売されて、巷では大騒ぎのようだ。

今回の装幀を手がけたのが、長い間お付き合いをさせていただいている元新潮社装幀室長のT氏である。

まだ私は読んでいないので中身はわからないが、新聞などで紹介されている写真を見ると、表紙がとてもシンプルで、洒落たデザインだなと思っていたが、さすがT氏である。

偶々フェースブックでインタビューの記事が出ていたので読ませていただいた。

既に「ねじまき鳥クロニクル」や「IQ84」などの村上の長編作品も担当しているが、そのインタビューで制作現場の様子をうかがい知ることができた。


通常は作者と会わずにデザインをするが、村上の場合は綿密に打ち合わせを重ねる。

タイトルからわかるように、モーツアルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」からきているとのことで、次々と女性をたぶらかすジョバンニが父親に見つかり、その騎士団長である父親を剣で殺してしまうという筋書きで、それで剣をデザインすることになったそうだ。

クロスした剣などの案を作ったが、村上からもっとシンプルにとの要望があった。

村上自身がこんな感じかなとスケッチも描いたそうで、こんな経験は初めてだったという。

レイアウトが決まり、イメージをイラストレーターの方に伝え、仕上がることになった。

村上さんといえば羊だろうということで、剣の紋章は羊がデザインされている。

タイトルロゴも「殺」の部分だけずらしたのも村上の案だったそうだ。

こんな風に村上の意図を汲み取りながら、T氏のプランも取り入れ具現化していって出来上がったこの本の表紙である。

T氏は2000冊以上の装幀宣伝物を手がけ、退職後も装幀を手がける傍ら、絵も描いていて、ご自分の個展を開いたり、いくつかの画廊の企画にも参加している。


 



3月1日

今日は国際ロータリー2580地区中央分区の勉強会で帝国ホテルに800名の会員が集まった。

日本のロータリークラブで最も歴史のある東京クラブがホストとなり、今回の運営を任された。

中央分区の創立順で行くと次年度が我がクラブが担当となり、私が責任者としてホスト役を務めることになっていて、いつも以上に今回の会議には目を配らなくてはならず、実行委員会のメンバーとともに、その運営や懇親会の様子を隈なく勉強させていただいた。

今回の勉強会のテーマは「東日本大震災復興支援のこれから」となっていて、国会会期中のさなかではあったが、自由民主党農林部会長で元復興大臣政務官を務めた小泉進次郎氏に基調講演をしていただいた。

復興政務官を務めた頃の現場での話や、これからの支援をどう進めていくかを実に巧みな話術で語ってくれた。

35歳の若さで 、これだけ多くの聴衆をひきつけるのだからたいしたものである。

何かに書いてあったが、全体温、全体重を乗せて語ることで、その気持ちを伝えるようにしているそうである。

印象に残ったのは、現地に行って、「知る」ということの大切さ述べたことである。

被災した人や避難した人の生の声を聞いて、何が不足しているか、何が困っているか、何をして欲しいか、そこに行かなければわからないことをまず知ることであると。

そして支援は継続をしていかなくてはいけないとも語り、自分は担当はおりたが、時間があれば東北三県に行って、被災者の人たちとの対話を続け、自分なりの支援を続けているそうだ。

各ロータリークラブが継続して復興支援を続けているが、改めてロータリークラブでの今後の役割について、考えさせられるいい機会となった。

さて次年度、テーマや講演者の選定、運営などが私の肩に重く圧し掛かっていて、頭も胃も痛いが、任された以上はやるしかない。

  2月28日

現代美術コレクターで、いつも私どもの展覧会の紹介と論評を寄せてくださる敦賀信哉氏の小説「天秀尼」ー豊臣家最後の姫ーが、3月7日に刊行されることになった。

大坂夏の陣で、生き残った秀頼の娘、奈阿姫(天秀尼)は、千姫の養女となり、尼になる条件で命を救われた。
その後、鎌倉東慶寺二十世住持となり、淀の方から受け継いだ極美の体現者としての才能を開花させた・・・

厳しい尼僧の日々だけでなく、血統による極美の体現者の才が花開く場面もある。
殊に支援した江戸狩野派の絵師の優美絢爛たる障壁画など、美術ファンにとっても必読の書となる。

美術論評でも的確に作品の意図を読み取り、巧みな文章で展覧会の内容を紹介して下さる敦賀氏だけに、その文才をいかんなく発揮した初めての時代小説となった。

定価1500円+税となっていて、3月16日から18日・15時半より18時半までフォルム画廊にてサイン会も予定されている。

ぜひご興味のある方は購読していただきたい。

ただ、アマゾンなどで申し込むと同題名の「天秀尼」があるようなので、作者・敦賀信哉で申し込んでいただきたい。




2月27日

3月3、4,5日と私どもの東京西北ロータリークラブの創立60周年記念の一環として、会員、家族、会友による美術展「友美会」をギャラリー椿で開催することになった。

4年前にも開催し、多くの作品が出品されたが、今回も自作だけではなく、秘蔵のお宝なども出品され、この三日間は素人・仲間うちの展示となるので、いつもご来場いただく皆様にはご容赦いただきたい。

併せて、今回は私どもクラブが支援をしている武蔵野東学園の高等専修学校の生徒の皆さんの作品も多数出品される。

武蔵野東学園は健常児と自閉症児の「混合教育」と自閉症児教育の「生活療法」を実践している学校で、健常児には他者に優しい「心の教育」、自閉症児には健常児からの適度な刺激による社会自立に向けた教育がなされている。

今回は素晴らしい感性による絵画や陶芸作品が30点ほど出品され、その成果を見ていただき、会員やご家族との交流も深めたいと思っている。

   2月24日

海外のお客様が先日の個展で大作を含めまとめ買いをしてくれたのだが、行き違いがあって、全てキャンセルになってしまった。

こちらの方に非があったので、キャンセルも仕方がないし、返信もしてこないと思っていたが、そうであってもお詫びだけはしておかなくてはと、謝罪のメールだけは送らせていただいた。

その日一日は、折角出会った素晴らしいお客様とこんなことになってしまったことを後悔するとともに、海外のお客様との対応の難しさに頭を抱え、眠れぬ夜をすごした。

ところがである、お詫びの気持ちが通じたのか、翌日メールが返って来たのである。

私たちの対応には失望したとは書いてあったが、やはりその作家の作品は好きなので、改めて請求書を送ってくれとのメールが届いたのである。

更に2点追加をしてくれと書いてある。

いっぺんに目の前の雲が取り払われ、雲間から日が差し込んできたような気分である。

今一度売れた喜びより、私たちの心からの謝罪を受け入れてくれたことが、何よりもうれしかった。

晴れ晴れとした気分で、今夜は良く眠れそうである。

2月23日

海外やインフルエンザで暫く伺えなかったお客様のお見舞いに行ってきた。

病院は海のすぐそばののどかな場所にあり、カモメやウミウがゆっくりと波間を漂っている。

周りにはお洒落なレストランやカフェ、いくつかのマンションがあるくらいで、普通の家やお店も見当たらず、実にのんびりしたところである。

静養するには最適な場所で、お客様の容体も日増しに良くなってきている。

昨年倒れて二度ほど伺ったときは、呼びかけにも応えず、意識はあっても反応がなく、このままだと大変なことになると思っていたのだが、今年になってから覚醒し、ろれつは回らないが喋ることも出来るようになり、ほっとして帰ってきた。

そして今日伺うと、以前にもまして元気になり、自分で立ち上がって一歩二歩と歩けるまでになってきた。

話も以前よりは明瞭になり、全部ではないが聞き取ることができるようになった。

暖かくなってきたら、海辺を散歩し、潮風に触れることでいっそう元気になってくれるのでは。

リハビリは5月くらいまで続くようだが、慌てずゆっくりとリハビリに励み、毎週の日課であった画廊通いにご自分の足で来ていただくことを楽しみにしている。

2月22日

新たな「富山県美術館」の設計を担当する建築家・内藤廣氏の美術館に対する考え方に同感で、その対談の要旨といっても長くなるが、紹介させていただく。


北陸新幹線の開通以降、観光地としても注目を集める富山県に、2017年、新しい美術館がオープンする。
長らく愛されてきた富山県立近代美術館を改称し「富山県美術館」として生まれ変わるのだ。
ロケーションも大きく変わる。
富山県民・市民の憩いの場であり、世界一美しいスターバックスがあることでも有名な富岩運河環水公園の敷地内に、屋上も含めて全四層のフロアを擁する建物が現れる。

その設計を担当したのが、内藤廣である。
海の博物館(三重県)、牧野富太郎記念館(高知県)など数多くの文化施設を手がけ、東京大学の教授、副学長を歴任(2001〜2011年)した内藤は、表層的な造形よりも構造を重視する建築家として知られ、土地ごとの特長、素材の個性に寄り添う人物である。
そんな彼に、富山県美術館にかける想いを訊ねてみた。

その問いの答えからは、アートと社会の関係が見えてくるかもしれない。

中略

インターネットで何でも見られる時代において、美術館の役割も難しい時期に来ている?

たくさんの期待を背負いはじめた美術館は、少し難しい時期に来ていると思います。

―内藤さんは、1990年代から数多くの美術館・博物館を手がけてきました。
当時から現在まで、日本の美術館は、デザイン面でも、社会的な役割の面でも大きく変化してきたと思いますが、内藤さんの目に美術館というものはどのように映っているのでしょうか?

内藤:昔の美術館は所蔵品を中心に展示していましたから、特定の絵画や彫刻が一番よく見えるなら、個性のある展示室でもよかったわけですね。
それと作品を保存し、後世に伝えるための堅牢な箱としての収蔵庫があればよかった。
でも、いまは大型の企画展が中心の時代ですから、国内外からどんな作品を借りてきてもニュートラルに見せることができて、かつ想定しうるトラブルから作品を完全に保護しなければいけないというミッションも負っています。
その他にも、地域におけるコミュニティーの拠点としての役割も期待されたりする。
たくさんの期待を背負いはじめた美術館は、少し難しい時期に来ていると思います。

―しばしば観光の目玉としても期待されますから、アートツーリズムの経済効果も意識しないといけない。

内藤:明治初期に国内最初の博覧会が開催されて、その後、帝国博物館(現在の東京国立博物館)などが整備されたころは、日本画にしても洋画にしても「新しいものをたくさんの人に見てもらおう」という明快なメッセージがありました。
そして第二次世界大戦後は、新しい時代の空気を感じたいという人が美術館を訪れました。
ぼくは鎌倉で育って、先日閉館した神奈川県立近代美術館の鎌倉館には中学生のころから通っていましたけど、美術館が存在する理由や意思を子どもながらにビビッドに感じることができた世代です。
ところが、ある程度みんな豊かになって、昔だったら画集を手に入れることすら難しかった作品がインターネットなどで簡単に見られる時代になると、美術館の役割というのは明快ではなくなってくる。

―海外の有名作品が来日する機会はいまだに特別だとしても、多くの人たちにとって実物の作品を見る意義が薄れているんですね。> 内藤:やはりなんらかの価値の転換が美術館に求められている気がします。
また美術館そのもののあり方とシンクロするようにして、現代美術も迷路に入り込んでいると思うんですね。
たとえばダダイズム(1910年代に起こった芸術運動。既成の秩序や常識に対する否定、破壊を大きな特徴とした)の登場によってそれ以前のアートの価値観が破壊されたとすると、表現の可能性が成層圏までぶっ飛んでしまって、ついには依って立つ根拠もない場所にまで現代美術は到達してしまった。
その反動として、村上隆のような具象性の強いアートに回帰したりもする。

_―村上隆の作品はさまざまな解釈が可能と思いますが、ポップなアイコンを用いたり、日本美術のコンテキストを戦略的に利用する点では、たしかに反動的とも言えますね。

内藤:それも、現代美術がまだ着地点を見出せていないことの表れだと思うんです。
その意味で、富山県美術館が「デザイン」を大きな柱に据えようとする試みは、うまくいけば一つの答えになるかもしれません。

―それはどのような?
内藤:アートは人の心の内面に向かうものでしょう。
ですがデザインは、基本的には他者に対してなにができるかという点に目を向けています。
富山県美術館には数多くのポスターとデザインチェアーのコレクションがあります。
ポスターは多くの人にメッセージを伝えるためのデザインです。
デザインチェアーも「人間をどう座らせるか?」という、他者への興味を秘めているわけですね。
アートとデザイン、この二つが混ざり合うことによって、新しいなにかが生まれてくるような気がします。

―「自己(アート)」と「他者(デザイン)」という二つのテーマ。

内藤:それに加えて、未来に向かう時間軸のベクトルとして「子ども」も大切な要素になっています。
屋上庭園やふわふわドームがその象徴ですね。
「自己」と「他者」、それを貫く「子ども」っていう図式が、ぼくはなかなかいいんじゃないかなと思っています。
新しい時代の、新しい美術館の姿かたちを示せるかもしれない。

―二つのテーマのあいだを「子ども」が貫いている、というのは未来への意識を感じさせますね。

内藤:東日本大震災、つまり「3.11」の存在が大きいです。
復興のお手伝いで三陸に行くたびに思うのですが、そこでは人間の存在や文明の意義が問われていると感じます。
日本全体、あるいは世界全体が問い直しの時期に来ています。
そういうときに、単に立派な美術館を建てればいい、という話ではまったくないと思うんです。
こんな時代だからこそ、アート(自己)、デザイン(他者)、子ども(時間軸)の問題を同じテーブルの上に置いてみて「なにが起こるだろう?」と考えて実践することは有効ではないでしょうか。
そして建築家はそれをサポートするような場作りをすればいい。建築は主役じゃない。背景であればいいんですよ。

30年以上のキャリアを持つ内藤が挑戦したのは、人生を救ってくれる作品と出会えて、「まわりの空気の取り込み方がすごい」美術館> すごく深刻な心の状態に置かれた人が、人生を救われるような作品と出会うための美術館があってもいい。

―新しい美術館を語るシンポジウムで、内藤さんは「100年間残る美術館を作りたい」とおっしゃっていました。
それは、100年後の未来まで機能する、社会的な場としての美術館を作る、という意味でもあるのでしょうか?

内藤:そうですね。
ただ「100年間変わらず残す」ということではなくて、その間にどんどん変わっていけばいいと思っています。
100年後はアートの領域が拡張しているかもしれないし、デザインが拡張しているかもしれない。
あるいは子どもの数や概念も拡張しているかもしれない。
テーブルの上に置いたどれが育つのかは、これから次第でしょう。
だから建築もその変化に対応するように、ある部分は作り替えて、ある部分は更新されて、そして未来に残っていけばいい。> ―建築に手を加えても構わない?

内藤:全然構わないです。
たとえば、『安曇野ちひろ美術館』(1997年)は2回増築して、当初から2.5倍くらいの大きさになっています。
『海の博物館』だって、収蔵品の増加に合わせて手を入れてますからね。
建築が永遠にあり続けるっていうのは誤解ですよ。
建築のミッションは、「変わっていくものをどこまで支えられるか」ということだと思います。
そして、ついに支えきれなくなったときにダメになる。
普遍であることにぼくはあまりこだわっていません。

―どんどん変えていけるという意識で作られた美術館は、そう多くないですよね。> 内藤:パリにポンピドゥー・センター(1977年)が登場して以降、オープンな空間構造を持ち、市民のさまざまな文化活動をサポートする箱としての美術館が世界中に増えました。
それらは時代の要請に対応した好例だったと思います。
ただその一方で心の内側に深く染み入るようなアートの体験を提供する場としては、少し物足りない気もするんですよ。
すごく深刻な心の状態に置かれた人がいて、その人の人生を救ってくれる作品と出会うための美術館……そういう場所を求める人はごく限られた数かもしれないですが。

―それは教会のようなイメージの場でしょうか?

内藤:ある意味ではそうですね。
最近の美術館は文化のコンビニエンスストアになりつつあるかもしれないですが、もっと心の深いところで作品と出会える場所でもありたい。
富山県美術館には、マルセル・デュシャンやジャスパー・ジョーンズ、フランシス・ベーコンといった20世紀を代表するアーティストの良質な作品を所蔵しています。
激動の20世紀を生きた彼らの作品は、心のかなり深いところをえぐってくるものが多い。
その作品を見せる場所としても、それなりの空間を用意したいですね。

―なんとなくですが、内藤さんの理想とする美術館の姿が見えてきた気がします。

内藤:先日、NHKテレビのドキュメンタリーで倉敷の大原美術館に毎日通っている近所のおばあちゃんが紹介されていて、とてもいいなと思いました。
普通の人が、なんとなく通って「この絵、気に入ってるんだよね〜」とか言って、アルフレッド・シスレー(19世紀印象派の画家)の絵を説明したりする。
あれが美術館の本来あるべき姿かなと。
オープンな、生活と地続き感のある場所であると同時に、それぞれの人がそれぞれの深度で愛着を持つことができる美術館。
「アート」と「デザイン」と「子ども」をテーマに掲げた富山県美術館は、そうなれると思うんです。

―なるほど。> 内藤:アートはなんとなく物怖じしちゃうけれど、永井一正さんのデザインした動物のポスターは好き、って人。あるいは横尾忠則さんの超未来みたいな絵に助けられたって感じる女子高生。
子どものころにふわふわドームで遊んでいて、何十年後かに「よくここで遊んだなー」って記憶を大事にしてるお父さんとか。
興味を持つ入り口はたくさんあっていいと思うんです。
そこからリンクを辿るようにして、自分なりの美術館、自分なりの表現との出会いを紡いでいく。

―リンクを辿るというのは、インターネットの世界を想像しますね。

内藤:まさにクラウドみたいにフラットな場所だと思います。

―内藤さんの建築作品って、切妻型の屋根という特徴はあるとはいえ、外見はかなり素っ気なくデザインされているものが多いじゃないですか……。

内藤:ぼくも自覚してるんです。すみません(笑)。> ―批判しているのではなくて(笑)。
その内部に入ったときに、視覚や体験の広がりを感じさせてくれる空間だと思うんですね。
それはつまり「建築とは外よりも中を作っていくものだ」という哲学が通底していることの表れだと思うんです。
そういう意味では、クラウド的とおっしゃった富山県美術館も、これまでの内藤さんの建築の特徴とは異なっていますが、やはり延長線上にあるものではないでしょうか?

内藤:つながっていると思います。
じつは、かなりすごい空間になるという自信はあるんですよ(笑)。
なにがすごいかというと「見た目がすごい!」「構造がすごい!」とかではなくて、「まわりの空気の取り込み方がすごい!」みたいな美術館になると思います。
屋上から見る立山連峰は間違いなく富山イチのビューポイントになるでしょうし……。

―背の低い建物で屋上が緑地ですから、遠くから見ることで環水公園の風景にも一体化するでしょうね。
タワーのようなモニュメンタルなかたちをしてないところもいいですよね。

内藤:そうなんです。文化のハブになる場所ですから、建築家のエゴや主張は見えなくていいんですよ。

2月21日

作品を施設に納めさせていただいているシルバーウッド社長の下河原氏に、私どものロータリークラブで「新たな終の住処のかたち」と題して講演をしていただいた。

氏は特許を取得された躯体パネルの販売とともに、直轄運営によるサービス付き高齢者住宅「銀木犀」を開設し、現在設計中の計画を含め、12棟の高齢者住宅を展開されている。

更にバーチャルリアリティ認知症プロジェクトを開発し、健常者の方に認知症体験をしてもらい、認知症の方への理解を深めてもらう活動も熱心にされていて、NHKの「おはよう日本」でも大きく取り上げられた。

「銀木犀」は自分の家の延長のように自由で気兼ねのない生活を目指していて、地域、子供達、入居者同士との共生を図ることで、終の住処としての高齢者住宅をそのコンセプトに掲げている。

そのため一般老人ホームのような管理はされていず、認知症の入居者の徘徊防止のための玄関の施錠などもされてなく、逆に束縛されることがなくなったために徘徊がほとんどなくなっているそうである。

入居者がぶら下げた居酒屋と書いた提灯の下では、昼間から入居者が仲良く一杯やっている。

施設に併設された駄菓子屋には学校帰りの子供たちが立ち寄り、入居者と一緒に施設で遊んでいるという。

施設で開催される盆踊りや音楽会などは、地域の人たちも大勢参加して楽しんでいるそうだ。

家で看取ることがほとんどなくなった今、病院ではなく「銀木犀」が高齢者の「終の住処」のとなることを目指して、下河原氏は日夜頑張っておられる。

クラブの会員も身近に迫る問題だけに大変熱心に聞いていて、「銀木犀」に入居しようという会員も出てくるのでは。





2月20日

日曜日に再び前橋アーツへ。

今日は金井訓志画伯のトークショーと関連企画の群馬交響楽団のメンバーによる弦楽四重奏の演奏会が。

風邪気味だったが、出品者の池田、山本、横田画伯も来ると言うことで頑張って行ってきた。

先ずは、演奏を聴いたが、美術館での演奏はまた格別の味わいがある。

金井画伯は旧作のデッサン、奥様の若かりし頃の油彩画から現在に至るまでの作品を見せながら、その変遷を語った。

作風はすっかり変わったが、根底には最初のデッサンにあるように、形以前にまず線を意識して描いていることが、よく理解できた。

その後、これも関連企画の近隣の画廊の展覧会にも金井画伯たちが参加しているということで行ってきた。

最初に行った阿久津画廊には、山本麻友香と横田尚が出品をしていて、I氏コレクションで知られるI氏を始めたくさんのお客さんが詰め掛けていた。

幸いというか、二人ともそれぞれに売約の赤印がついていた。

来ておられたお客様の一人が、山本の絵を買ったということで、挨拶をさせていただいき、3月11日からの山本の個展の案内もさせていただいた。

次に向かった設備会社「大和」の一階ロビーには金井作品の大作が展示されていた。

今回も一日前橋尽くしで堪能させてもらった。








2月18日

旅行の疲れかまた風邪をひいてしまった。

昨日1日家でゆっくりしたが、まだ喉が痛い。

去年の冬からこの前のインフルエンザを含めて、4回目のダウンである。

バカは風邪を引かないと言って、長いこと風邪を引かないのを自慢にしてきたが、70の声を聞いた途端にこの体たらくで、年とともに免疫力がなくなってきたようだ。

今日も高校、大学の友人が来て、10日ほど前に一緒に旅行していた小学校の友人が、突然風呂で亡くなったり、同じく仲のいい友人も同じ頃に、朝起きて来ないので部屋に行くと亡くなっていたそうで、かなりショックを受けていた。

私は50歳の時に親しい友人を三人立て続けに亡くしていて、年の節目にはこういうことがあるのかなと、ふと思ってしまった。

若いつもりでもそれなりに年がいったことを自覚しなくてはいけないのだろう。

2月13日

最後の日、ホテルのプールを眺めるレストランで朝食。
海岸は天気が悪く散策できなかったが、このホテルにはもう一度ゆっくり来て見たいと思うほどの素晴らしいホテルである。





チェックアウト後、ダナンの日本語学校を見学。
ここはドンズー日本語学校を卒業した青年がダナンでも日本語教育をしたいとの思いから学校を作ることとなり、我がクラブでも1番の若手O氏が出資をしてできたばかりの学校である。

ドンズーに比べるとまだ生徒数も少ないが、語学だけではなく、日本文化や日本人のマナーなども教え、将来日本に留学したり、ベトナムの日系企業で働く人材を育成したいと大きな夢を抱いている。





終えて一路空路でホーチミンへ戻る。
ダナンと違って、ホーチミンは34度の暑さで日差しが痛いくらいである。
ダナンとは15度は違うだろう。

市内の中心街に向かい、タイシルクやベトナム漆器のお店で土産物を物色。

前回はここで家内や娘のためにシルクのシャツ、スカーフ、ハンドバッグ、私用のネクタイ、漆の器などを買い込んで、慌てていたのかホテルのチェックアウトの際にカウンターの下に忘れてしまい、気がついた時には全部なくなっていたという苦い思い出がある。

家内たちは実際は買ってこなかったんだと疑っている。

そんなこともあって、今回は慎重に忘れ物がないように気をつけていたが、2回ほど仲間には恥ずかしくていえない忘れ物をしてしまい、ボケは更に進行しているようだ。

終えて、高級スパマッサージのお店に行き、ホットストーンマッサージで疲れた体を癒し、最後は併設するイタリアンレストランで、ベトナム料理に飽きたメンバーのリクエストもあって、イタリアンを食べることになった。



食事を終え、空港に向かい深夜便で日本に向かう。

四回もホテルが変わり、飛行機を乗り継いだり、長時間バスに揺られたりの慌ただしい旅行だったが、気の置けないロータリークラブの仲間たちと更なる友情を深め、私たちの支援も少しは日越交流のお役に立っていることも確認でき、とてもいい旅行ができたと思っている。

湧き出てくるようなオートバイ軍団にもお別れである。



2月12日

温泉スパからダナン市内観光へ。

新しくできたダナン市内を見下ろすリンウン寺へ。
巨大な観音像が海と街を守るかのようにそびえ立っている。

そのご利益なのか、建立以降は海が台風の被害に遭うことはないそうだ。

昼はこれまたダナン料理でたらふく食べて、また帰って体重計に乗るのが怖い。







ダナン市内を抜けて、次の観光地で世界遺産となっているホイアンに向かう。

前にも来たことがあったが、すっかり俗化してしまい、軒並み陳腐なお土産店が並び、以前の面影はすっかりなくなってしまった。

観光客も日曜日ということもあるのか、狭い通りが人で溢れかえっている。
観光客の多くが韓国人で、どこに言っても中国人の団体客というのとは違っている。

昔、日本との交易が盛んで川にかかる橋を日本橋と名付け、今ではホイアンの一番の名所となっている。

町並みを散策した後は川沿いのレストランで、海鮮料理を食べる。
メンバーの一人はベトナム料理に飽きたのか、パスタを注文する者もいる。
私はどのベトナム料理も口に合うのか美味しくいただいているが、パクチーだけは苦手で、これがなければ言うことないのだが。

ただ最初にベトナムに訪問した時には最後の日に食べたアイスクリームに中り、約一ヶ月お腹を下していたので、冷たいものには気をつけていたが、お酒の飲めない私には辛抱ができず、ついにパッションフルーツのフレッシュジュースを注文してしまったが、今のところお腹の調子はいいようだ。









今日のホテルは、海沿いの瀟洒なホテルで、昨日の温泉スパとは大違いである。

2月11日A

雨の中を朝から世界遺産のフエ王朝の王様のお墓や宮殿を観光。

戦火に遭い、ほとんどが消失したが再建されて、当時の面影が甦った。
寒さに震えながらの観光であったが、フランス統治前の王朝の栄華を偲ぶことができた。

12代カイディン帝廟は随所に洋式建築が取り入れられ、どこか教会風の墓所である。

王宮はベトナム最後の王朝、グエン朝の 1802年から13代にわたる皇帝の居城となったところで、 王宮門から上に登ると、素晴らしい景観が広がる。









その後市内に向かい、有名なダナン料理店で食べきれないくらいの昼食を済ませ、次の予定地の開発中の温泉リゾートに向かう。

ここは同行メンバーの一人が投資をしたり、コンサルティングをしているそうだが、思惑通りには進んでいないようで、センスに今ひとつ欠けていて、目指す高級リゾートには程遠いようだ。

広大な敷地に配されるオブジェは目を覆いたくなるような代物で、香港のタイガーバームガーデンを彷彿させる。

日本側が出すプランはほとんど無視されてしまったようだ。

温泉も温度が低く、週末にもかかわらず人は誰も入っていない。

ニュージーランドの温泉もぬるくて震え上がったが、それでも新年の休みということで人で溢れかえっていたことを思うと、この先が思いやられる。





2月11日

ホーチミンから昨夜フエに到着。

フランス統治時代の面影を残したコロニアル風ホテルに宿泊。

夕食はフエ王朝の宮廷料理をレストランのテラスで食べるが、ホーチミンと打って変わって、雨のせいもあるのだろうか震えるような寒さ。
乾季のベトナムで雨も珍しいが、この寒さはどういうことだろう。
明日、明後日も雨の予報で、同行者からは私のせいだとの声が聞こえてくる。

料理は野菜をカービングし動物や鳥の形を模したものに生春巻きや揚げた肉巻きなどが刺してある。
昼もベトナムの海鮮料理を食べたが、あっさりしていて、ヘルシーで日本人の口には良く合う。

周りには盆栽が多く置かれていて、日本の庭のようだが、明日回るフエ王朝の宮殿や王様のお墓の周りにも盆栽がたくさん置いてあって、日本文化が以前から浸透していたのだろうか。







2月10日

ベトナムへ3回目の訪問。

まずは私どものロータリークラブで支援しているベトナムのドンズー日本語学校を訪ねる。

私たちが授与した奨学金で卒業し、べtナム社会に貢献をしている3名の若者にも面会。
ベトナムは英語、日本語が第二外国として採用され、多くのベトナム人が日本語を学んでいる。

ここを経営するホーエイさんは京都大学、東京大学で物理学を勉強し、日本で研究をしていたが、ベトナム戦争がはじまり、危険を顧みず、戦火の最中ベトナムに帰国された。
大変な苦労を重ねた後、戦争が終わると、日本に恩返しをしたいと日本語学校を開設した。
今ではベトナムに13の学校を持ち、7000人の学生が日本語を学んでいる。
ドンズーとはベトナム民族独立運動「東遊運動」に由来し、東に学ぶ、つまり日本に学ぶと言う意味だそうだ。

開校以前には、貧しくて学校に通えない子供達のために「青葉奨学金」という制度を作り、小学校から大学までの学費を提供していて、その活動に私たちも賛同し支援を続けている。

更にホーエイさんは私財を投じ、奨学生や日本語学校の生徒の中から優秀な学生約150名を毎年日本の国立大学に送り出している。
ホーエイさんは日本とベトナムの架け橋となる最大の貢献者の一人と言っていいだろう。

ホーチミンは30度を超える暑さ。
それと相変わらずオートバイが溢れるように出て来て、ベトナムに来たんだと実感させてくれる。





2月9日

日曜日に前橋アーツの展覧会を見に行ってきた。

在来線も新幹線もそれほど時間が変わらないので、在来線を使って行くことにした。
各ドアーに開閉ボタンがついていて、ボタンを押して入ったのはいいが、自動で閉まると思い、そのままにしていたら、周りの客さんからのきつい視線に自分で閉めるんだと気づかされ、大慌て。
寒い地域の列車はどこもこういう仕組みのようだ。

上州のからっ風というが、強くしばれる様な風が肌を刺す。

寒さで身をすぼめるようにして美術館に入ったが、館内は熱気に溢れかえっていた。

各ジャンルのアーティスト主導の展覧会ということで、内容は統一感のない展示になっているのだろうと、たかをくくっていたが、どっこい中身の濃い充実した作品が並び、各ジャンルが違和感なく展示されている。

ここの美術館は現代美術一辺倒というふうに聞いていたが、日本画や工芸なども質の高い作品が並び、現代美術にこだわらなくても質の良い作品は分け隔てなく展示していったらどうだろうか。

前橋出身や在住作家ということで、来館者もより身近に作品に接することができるようだ。

キャプションには出身の小学校や中学校が記されていて、子供達も先輩たちの作品に触れることで、美術がより親しみやすいものになっている。

こうした市民サイドに立った企画は美術館運営の一つの方向性を示していて、他の美術館でもこうした市民に添った企画が増えてくるのではないだろうか。

3年後にまた開催されるそうだが、今回の成功を更に発展させるよう、行政や美術館の一層の力添えを期待したい。

私どもで発表をしている金井訓志と山本麻友香両氏が今回の企画の実行委員長、副委員長として運営に参加し、二人とも個展の準備で忙しい中にあって、時間を割いて頑張ったことも、こうした大きな反響につながったのではと、そのご苦労にも敬意を表したい。

作品では私どもの作家以外にも目につく作家も多く、中でも木彫作家や木工芸の作品に興味深いものが多く見られた。

中には私どもでも扱いたい作家もいて、こうした出会いの場ができたことにも、この企画のおかげと感謝申し上げる。




2月8日

河原朝生展の敦賀信弥氏の論評が素晴らしいので紹介させていただく。


河原朝生@ギャラリー椿。

河原の絵には、どの絵にも静と孤というイメージがある。しかし、寂しくて孤独というのともちょっと異なる。
それは、孤なのにどこかユーモラスであり、静と思うと何処からともなく優しい音色が聴こえて来るような印象があるからだろう。
そして、最も強く感じるのが色のトーンの暖。
濃い緑や茶褐色に混じり夕焼けを思わせる赤がそれを強く感じさせる。
で、見る者はある種の活力を貰って、絵の前を去るのだ。
18日まで。


今回偶然訪ねてきたニューヨーク在住の若くてモデルさんのような美しい中国人女性が、河原作品100号、80号など4点をいきなり購入。

韓国のフェアーでもコレクションしてくださる方がいて、今風の絵とは違うのだが、海外でこうした作風を認めてくれるのはとても心強い。

2月5日

河原朝生展も始まった。

静謐で飄々とした作品が並ぶ。
何と言ったらいいんだろうか、不思議な絵である。

山の彼方にネクタイをした紳士が羽根をつけて浮かんでいる。
手前には川が流れていて、さらにその手前には川から流れ出た水なのだろうか、タイトルは「運河の監視」となっている。
なるほどタイトルを見れば確かにそんな絵である。

やけに横に長い家がある。
魂のようにも見えるし、風船のようにも見える捉えどころのない形が屋根から飛び出していく。
タイトルは「病む家」だそうだ。

茜空に長閑な煙突の煙がたなびき、空にはUFOが浮かんでいる。
「午後の偵察」というタイトルが付いていて、成る程そうなんだと納得する。
こんな風に作品もタイトルもなんか捉えどころのない摩訶不思議な空気を醸し出してくれる。

私はよその画廊で発表をしている当時から、そんな不思議な作品に惹かれ、その思いが通じたのか、今では私のところで発表を重ねるようになった。

こうした発想は私には及びもつかないが、それでもどこかで見たような既視感が私を引きつけるのだろうか。

今の時代にはこんなのんびりとした絵はそぐわないのかもしれないが、私には愛しくてたまらない、そんな思いを抱かせてくれる河原の作品である。



2月4日

今日から二つの展覧会が始まる。

GT2では小原馨の私どもで12回目の個展である。

彼が作品を見て欲しいと訪ねて来て、30数年が経った。
その当時彼は盲学校の美術の教師をしていて、目の見えない生徒たちに教える影響もあったのだろうか、紙の上に描いた面を引っ掻いたり、削ったり、ローラーで擦ったりと手の感触で画面を構成する手法で描いていた。

子供の時間と題した作品はタイトルの通り、子供が地面に落書きするかのような自由な線や面で描かれていて、私は一目で虜になり、個展をする事が決まった。

それから試行錯誤しながら現在に至るのだが、今回はそのマチエールの美しさに進化の跡がうかがえる。
技法は同じように絵の具を引っ掻いたり、ローラーワークなのだが、一段と透明感が増したようだ。

彼が子供の情景とともに、光をテーマにした事で、光が画面から立ち上がるようになったのかもしれない。

彼は個展に際し、次のように述べている。


郷里(岩手)の風景の記憶を抽象化して描くというのが、長年自分のテーマの根幹にあった。
しかし、それが逆に自分を縛り、一歩も前に進めなくなった時があった。
2010年のことである。
暗夜行路のような心境の中で、失敗して黒く塗りつぶしてしまった作品をずっと眺めているうちに、画面になんとなく光が見え、その光描いたことから「光の発芽」というテーマの連作が始まった。
心が光を欲していたのかもしれない。

その後、3・11の大震災が起きた。
郷里岩手の美しい三陸海岸は見るも無残な状況になり、余震が続く中、突然父を失った。
昨年はたった一人の兄と義姉を失った。
まさに一寸先は闇である。

私は、自分の心の中の風景に発芽したささやかな光が、少しでも多くの人の心に届くことを願い、「光の発芽」を描き続けている。
同時に、また、そのテーマに縛られるのを避け、表現の遊び心を失わないように、「子供の時間」というテーマの作品を並行して制作している。

今回の個展は、この二つのテーマの連作を半々の数で展示しているが、今後は「光の発芽」を「子供の時間」の中に吸収して融合していきたいと考えている。





2月3日

今日から前橋の美術館・アーツ前橋で「前橋の美術2017~多様な美との対話~」が始まる。
前橋市出身・在住で創作活動を行なう48名のアーティストが参加し、初めての市民企画として2月3日から2月26日まで開催される。

私どもで発表している作家には前橋出身作家も多く、金井訓志、室越健美、池田鮎美、山本麻友香、横田尚の5人のアーティストが出品している。

地域と美術の現状を見つめる作家が一堂に会し、未来の前橋を担う若者たちへ大きな刺激となることを目的とした初の試みだそうだ。

昨日レセプションがあって招待されていたが、所要で伺うことができず、日曜日に行ってこようと思っている。

ちょうど5日の日曜日には参加アーティストによる作品の説明会があり、5メーターの大作を出品した横田尚のトークもあるということで楽しみにしている。


1月29日

ようやくインフルエンザも回復して、先週土曜日より画廊に出勤。

案の定、画廊スタッフ、展覧会中の作家さん、土曜日に新年会で訪ねた友人の奥さん、そして家内とインフルエンザを感染させてしまった。

みんな同じように高熱が出たり、頭痛がしたり、吐き気がしたりとひどい目にあわせてしまい、申し訳なく思っている。

感染力のすごさは大変なものである。

この時期の風邪はインフルエンザを疑わないと、周りの人に迷惑をかけてしまうので、深く反省し、次からは予防注射を必ずするようにしなくてはいけない。

展覧会中の後半を棒に振ってしまい、いない間の売り上げはいまひとつとで、個人営業は何より健康第一を実感させられた。

一月も後僅か、すぐに春がやってきて、一年が慌しく廻って行くが、新年早々の風邪を肝に銘じ、仕事に精進していかなくてはいけない。

1月25日

稀勢の里横綱昇進が決定した。

私もわずかだが縁があり、久しぶりの日本人横綱誕生に喜んでいる。

大関になって間もない頃だろうか、場所中だったが、私の知人が稀勢の里を支援しているいわゆるタニマチということで、向島の料亭でご一緒させていただいたことがある。

いや大きいこと、私の隣に座った大関は前も横も縦も規格外の大きさである。

ただ大関という威圧感はなく、童顔で優しい好青年といったっ感じであった。

食事をしながらいろいろ話をさせてもらったが、印象に残っているのは、当時連勝記録を伸ばしている横綱白鵬に話が及んだ時である。

何とか大関に阻止して欲しいと言うと、横綱は身体がやわらかく、組もうとしてもするっと抜けてしまい、倒すのは難しいと言っていたが、そこを何とか工夫して、勝つようにと激励した。

優しい風貌と相俟って勝つという気迫があまり感じられなかったのだが、何とそれから数日後の取り組みで、白鵬に勝って連勝記録を止めてしまったのである。

これには驚いたが、私の激励が効いたのだと、一人ひそかに思っていた。

ただそこから何度も横綱昇進のチャンスが訪れたが、私に見せた弱気が災いしたのか、そのチャンスを自らの手で失い、私もずっと悔しい思いをしていた。

余談だが、若貴のお父さんの貴乃花の大関時代にも広島・呉の料亭に一緒に呼ばれたことがあったが、その時も大いに期待したものだが、横綱にはなれず、稀勢の里もそうなるのでは心配したが、今回の昇進でその心配も払拭された。

これからも白鵬を筆頭にモンゴル勢が立ちはだかるが、久しぶりの日本人横綱に大いに頑張って欲しいものである。

1月24日

ようやく喉の痛みや身体のだるさが弱まってきた。

今日は朝日新聞の厚生文化事業団主催の公募展の審査があって行かなくてはならず、お客様の所の納品展示の予定もあるが、お客様のところは画廊のスタッフが行ってくれることになった。

電車で菌をばらまくのもはばかれるので、車で審査には向かうことにした。

画廊で聞いたのか、朝日のスタッフはみんなマスクで恐る恐る私をお出迎え。

今回は応募作品が少なく、目につく作品も少ないのではと思っていたが、どっこい秀作が多く、何度も作品を見直し、推薦作品を選ぶ。

遠巻きに私を見守るスタッフたちもできるだけ早く終わってくれないかと思っているに違いない。

一時間ほどでようやく終えることができて、スタッフたちもホッ。

感染っていない事を願うばかりである。

1月23日

土日と友人宅で新年会、母の7回忌を終えたが、どうにも身体がだるくというより痛い。

だいぶ熱があるようで、近くの医院に行くと、なんとインフルエンザA型に罹っているとの診断。

70年余このかたインフルエンザに罹ったこともなく、そんなこともあって、予防注射もした記憶がない。

高齢者のインフルエンザの予防接種の案内も来るようになったが、一切無視だったが、年寄りの冷や水で意地を張っていても一切無視で、そのバチが当たったのかもしれない。

取り敢えず今日は休むことにして、家でひたすら寝ることにした。

心配なのはその間に接触した家族や画廊のスタッフ、新年会の友人たちに感染っていないだろうか。

まさかのインフルエンザである。

1月21日

昨日は友人と家の近所で食事会。
昨年の忘年会ほどではないが、何やかやとお付き合いが続く。

そのせいか疲れが溜まってきて、どうやら風邪をひいたようで、咳が止まらない。

今日も友人宅で新年会のお誘いがあり、明日は母の七回忌法要で、寒いお寺の本堂で、長いお経を聞かなくてはいけない。

こんな事を言うとバチが当たりそうだが、あのお経というのはもう少しわかりやすくならないものだろうか。
ただ意味もわからず、じっと聞いているのだが、お経よりはしびれとの戦いが始まる。

キリスト教の教会での牧師さんお話しをうんと聞いたわけではないが、結婚式や葬式の折に聞いても平明な言葉で誰にでもわかるように話してくれる。

よく分からない方が有り難みがあるか知れないが、意味もわからずただ聞いているのも辛いものである。

風邪気味で咳が止まらない私には母には申し訳ないが、手短に済ませてくれるとありがたいのだが。

1月20日

日本橋高島屋の美術画廊Xにて三人展「光と色彩」が開催されていて、暮に私どもで個展をしたばかりの桑原弘明が新作を2点出品している。

今回はスコープ作品の様に精緻に作られた室内風景や屋外の情景を覗くのではなく、手回しで光を発光させて、その光で星空の情景を覗き見せる作品となっている。

スコープで知られる桑原だが、こうしたオブジェ仕様で動いたり、光が出たりといった作品も多く制作している。

今回の作品も形の美しさもさることながら、輝く様な色合いにも目を奪われる。

星空がテーマというと正月休みに行ったニュージーランドの星空が記憶に新しい。
満天の降るような星の美しさは今でも瞼に焼き付いている。

桑原さんにもさっそく星空の写真を送ったが、今後の作品にもそうした情景が出てくるかもしれない。

ご本人も天の川も見えなくなってきた都会の空を離れて、一度は家族で行ってみたいとの返信が帰ってきた。

1月19日

昨年金井訓志個展のオープニングでマリンバの超絶演奏をしてくださった亀井博子さんが友人のサックス奏者とのデュオコンサートを開くということで、金井さんと一緒に行ってきた。

私どもの時は素人ばかりということで、親しみやすい曲を演奏してくれたが、さすがプロの演奏会、前衛的な難しい曲ばかりでしばらくは睡魔との戦い。

それでもお二人の熱のこもった演奏に、しばらくすると引き込まれ、眠気も吹き飛び、暫し流れる曲が心に響いてきた。

パソコンでさえ人差し指一本でしかできない私には、両手に何本ものマレットいう棒を持って、それを自在に扱うのだから、一体どうなっているのか私には想像の域を超え多テクニックである

。 今開催中の望月、塩澤の両人の技術も常人にはとても真似のできない技法で、いるところにはいるものだとただただ感心するばかりである。

1月18日

ロータリークラブの東京地区・多摩や武蔵野を含めた6分区のうちの中央分区を担当するガバナー補佐という役目を命じられた。

我がクラブにはそうした要職に相応わしい会員は多数いるが、年齢が90を超えたり、80歳代の人ばかりで、そうした中では一番若い、と言っても今年で71歳になるのだが、その私にお鉢が回ってきた。

年100日以上はそちらの仕事に拘束されそうで、零細企業の私がこんな事をしていいのかと心配になるが、ロータリークラブは頼まれたら断ってはいけないという不文律があり、仕方なく引き受けることになった。

早速今夜、担当する各クラブの会長幹事を集め 、第一回の顔合わせ会を開くことになった。
みなさん錚々たる人ばかりで、私の様なものがあれこれと指示を出すのは甚だ憚られるのだが、これも役目で仕方がない。

ようやく終わって家に帰ったが、どうも顎が痛い。
どうやら緊張で知らず知らずに歯を食いしばっていた様で、それで顎が痛くなった様だ。
これから一年半この役目をしなくてはならず、さてどうなることやら。

1月16日

トランプ大統領の就任式が近づいている。

まさかのトランプ大統領だが、オバマ前大統領に比べ、あまりに現実的で、理想を掲げたオバマとのちがいには驚くばかりである。

私の仕事も画商の言葉通り、商いという現実的な仕事をしなくてはいけないが、それだけではこの仕事は務まらない。
根底に理想があり、自分の夢を具現化してこそ商いに繋がると思っている。

そうした意味でトランプに一番欠けているのは夢の欠如である。

アメリカファーストを掲げるが、自分のところさえ良ければ、他国はどうでもいいという利己的な考えも気になる。

私は長い間ロータリークラブで奉仕活動を続けているが、ロータリーの精神である「真実かどうか、みんなに公平か、好意と友情を深めるか、みんなのためになるか」を自分に問いかけ行動の指針としている。

そのどれもがトランプに欠けているように思う。
そうした友愛の精神を失うと言動にまずは品格が欠けることになり、そうした人間がリーダーシップをとることに危惧を覚える。

今更変えようもないが、立場が人格を形成すると信じて、品位あるリーダーとして大統領の職務を全うするよう願うしかない。

1月15日

まさきとしか「いちばん悲しい」光文社が発刊された。
岩渕華林が装画を担当した。
装幀担当者と過去の作品を検討し、私の孫娘を描いた作品が候補に上がり、それをもとに新作を描き下ろし、今回の表紙を飾ることになった。

岩渕の装画本も数多く出版されるようになったが、その度に新たな引き出しが開けられ、作品の新たな展開に繋がる。

このことは現在個展を開催している望月通陽にも言える。
今や装幀家としても活躍し、講談社の出版文化賞も受賞しているが、染色という工芸の世界を大きな可能性のあるアートの世界へと導いた。

銅版画家の山本容子もそうした作家の一人で、今や版画だけにとどまらず、病院の壁画を手がけるホスピタルアートにも挑んでいる。

岩渕もそうした意味で大きな可能性を秘めていて、さらなる飛躍を期待している。

1月14日

GT2では塩澤宏信の個展も始まった。

こちらも超絶技法で、粘土を手で捏ね、細かいパーツで、カブトムシ、クジラ、テラノザウルスなどの恐竜とオートバイや自動車、飛行機などをリアルに再現していく。
その上に釉薬で色づけし、3回の釜入れをする。
そうしてできあがったパーツを組み合わせて作り上げていく。

子供の頃、特に男の子にとっての憧れであるカブトやクワガタ、飛行機やオートバイの自然とメカが合体した作品に、私たちが忘れていた童心が蘇る。

恐竜の皮膚感や昆虫の関節、エンジンや車輪の見事なまでのリアル感に驚愕させられる。

私自身こうした子供ごころをくすぐられる作品は大好きで、どの作品も全て自分のものにしたいくらいである。

細部までリアルに作り上げる技術もさることながら、焼きあがってみないとわからない色づけまでが本物と見まごうようで、とても陶器とは思えない仕上がりとなっている。

それを知らずに見る人に、陶器と説明すると一応に驚きの表情を見せ、改めて食い入るように作品を見つめ直すのである。
多くの人が金属でできていると思っているようだ。

百聞は一見にしかず、是非ご自分の目で作品の精緻さを見ていただきたい。



1月13日

私どもでもいよいよ仕事始め。
明日から望月通陽展が始まる。
私どもで一番長いおつきあいをさせていただいてる望月で、毎回正月の蓋開けを彼の作品で飾らしてもらっている。
昨秋、長野の美術館では、見る者を圧倒するような展示を展開し、今回の個展への期待も膨らんでいたが、その期待に応えるような作品が並んだ。

今回は、美術館で発表された作品も若干あるが、マスキングテープを使った新たな手法で、昨日も紹介した染色という工芸の世界を飛び越えた斬新な表現を見せてくれる。

細かく切ったマスキングテープを両側から和紙に貼って細い隙間を作り、そこに糊を埋めていく。
そうして出来上がるのが線描による表現で、そこでマスキングテープを剥がし、上から染料を何度かこするように塗っていき、乾いたところで、これまた刷毛に水を含ませ糊を落とすと、写真で紹介するような繊細で温もりのある作品が完成する。

筒描きと言う糊をクリームをしぼり出すようにして描く技法であれば、線描はたやすく描けるのだが、これは技術があれば美しい線となるが、そのうまさが線に味わいがなくすのを嫌い、あえてぎこちない線を出すために、こうした面倒な手法を取っているのだろう。
テープを剥がしていくので、作品は型染めのように複数を作ることはできず、一点しか作ることができない。
こうした美術館での展覧会以降、正月も返上で制作された作品が多数並ぶことになった。
彼に可愛い双子のお孫ちゃんができたこともあるのだろうか、微笑ましい作品も多く、同じ孫にめろめろの私も共感する作品が多い。
新年早々心洗われる展覧会をお楽しみいただきたい。

1月11日

今日から早速銀座三越で17日まで開かれる「KOUGEIのこれから」に浅井飛人が10点ほど出品している。
工芸が用の美から造形の美しさや現代を反映するオブジェへと目線を変える若手作家が5名が参加し、これからの工芸のあり方を示唆する展覧会となっている。
価値観の多様化の時代、こうした新たな表現をデパートが紹介しているのも、今の時代を象徴しているのではないだろうか。
1月10日

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

昨年暮れより長男家族のいるニュージーランドに10日ほど行ってきました。

長男は地震があったクライストチャーチにあるカンタベリー大学で客員研究員を務めるかたわら、カンタベリー大学のラグビー部のコーチを務め、世界一のニュージーランドラグビーのコーチングも学んでいる。

日本からの直通便がなく、かなりの長旅になるが、めったにない機会なので、私たち夫婦と次女家族で訪ねることにした。

クライストチャーチに3泊、絶景のテカポ湖に2泊、温泉のあるハンマースプリングスに3泊、乗り継ぎでシドニーに一泊と長い休暇をエンジョイすることができた。

クライストチャーチではゴンドラで山頂に登り絶景を眺めたり、アカロアで船に乗り、イルカやペンギン、アザラシなどのウォッチング、南極博物館では雪上車に乗ったり、南極極寒体験、息子たちとはゴルフを楽しみ、一足早く娘家族が日本に帰った後は、私達夫婦はエメラルドグリーンで知られるテカポ湖畔にある貸別荘に移動。

星空ウォッチング、氷河見物など日本では見る事ができないような素晴らしい体験をさせてもらった。

特に星空ウォッチングでは天空360度の文字通りの満点星に感動。
これを見られただけでもはるばる日本より14時間かけて来た甲斐があった。

ハンマースプリングスでは違和感はあったが、水着を着ての温泉入浴や、ここでも息子とゴルフなどを楽しんだ。

ニュージーランドは夏とは言えども寒さはかなりのもので、冬並みに雪の降る日もあって、寒暖の差が激しく、体調維持には苦労した。

食事はさすが羊の国だけあって、ラム肉は牛肉より美味しく、それに定番のフィッシュアンドチップスが毎回のように出てきて、正月からフライドポテト太りになりそうだ。

最後の日は、市内を散策したが、地震で壊れた建物がそのままになっていたり、空き地になっているところも多く、復興はまだまだのようである。

美術館は再建されたのか洒落た建物になっていて、昨年シドニーで見たエネジーをテーマにした展覧会が巡回してきたのか、偶然2回も見ることになった。
他の企画も、写真やビデオ、コンセプチャルアートが多かったが、収蔵品には見るべきものは少なかった。

9日に帰国したが、ニュージーランドの雄大な大自然に触れ、素朴で美しい国を心いくまで堪能させてもらい、心に残る旅なった。











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