Diary of Gallery TSUBAKI

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1月5日

成田からミラノを経由してパリに向かう。
ミラノの乗り継ぎで遅くなり14時間かかって夜半の12時近くにシャルル・ドゴール空港に到着。
パスポートも見られることなく荷物検査もなくあっという間に入国
時差に対応するため機内で一睡もしなっかったのでさすがに疲労困憊。
娘が気を利かして空港内のシェラトンホテルをとってくれていたので助かった。
部屋に入った途端にバタンキュー。

1月6日

パリは朝から雨模様。
ただ気温は高く1月のパリとは思えないような暖かさでダウンを脱ぎたいくらい。
先ずはポンピドー美術館へ。
ホテルの目の前が市内に通じる電車の始発駅になっていて便利この上ない。
地下鉄の階段を上がるといきなり中世都市が出現。
整然とした石造りの建物が立ち並び道の両側にはおしゃれなお店が軒を連ねる。
まっすぐ伸びた街路の先にガラス張りの美術館が忽然と姿を現す。
時間がないので駆け足で常設展を見て回る。
リヒターの風景画とタイマンスの小品が印象に残る。
すぐ横のブランクーシーの展示場で杉本博司展をやっていたが午後からの開館で残念ながらパス。

1時に昨年北川健次展で作品を購入してくれたギャラリー、ア・テンペラを訪ね、ここで2月にうちで個展予定のパリ在住作家大月雄二郎と落ち合うことにした。
ア・テンペラはルーブル美術館の真横にあるアンティークのギャラリーが2百軒も入っているという由緒正しそうな建物の中にある。
ここはモデルと見まごうような美人のお嬢さんと大きな企業の役員もしているお父さんと二人で3年ほど前から始めたどちらかというと古いタイプの作品を扱うギャラリーでGTUほどの広さしかない小さなギャラリーである。  

日動画廊や昔勤めていた梅田画廊でも扱っていたボリン展を暮れまでやっていて、その片付けの最中であった。
夕方シャンパンで再会を祝したいということで先ずは大月氏の案内で昼食に。
なんと蕎麦屋に連れて行かれた。
パリ最初の外食が日本蕎麦とは。
ところがここの手打ち蕎麦は美味しくてパリに来たらぜひお勧めの店「YEN]である。
その後サンジェルマン・デュ・プレ界隈を散策。
このあたりには軒並み画廊が立ち並んでいる。
その中の一軒大月氏を扱うVALLOISに立ち寄る。
他の画廊もそうだが京都のように間口が狭いが中に入ってみると奥に長く連なっていて外からだけではわからない。
何軒か覗いているうちにサロン・ド・ボザールに出る。
国立の美術学校で舟山一男もここで学んだ。

ボザールのすぐ横のホテル・ド・ホテルで一休み。
小さなホテルだが歴史の重さを感じさせる格調あるホテルで古い洋書に囲まれた小部屋でコーヒーブレーク。
ここで生涯を閉じたオスカー・ワイルドになった気分でゆったりとコーヒーを飲む。
ここから娘夫婦と別れて大月アトリエに向かう。
市内の重厚な建物群を抜けてセーヌ河畔をしばらく走ると大月氏が水羊羹と称する現代建築(図書館)が見えてくる。
そのすぐ近くのアパートメントが彼のアトリエである。
2月の個展で出品予定の写真の作品を見せてもらうがなかなか良い。
写真の構成に使う壁中に並べられた夥しい数のオブジェがまた面白い。
アトリエ自体がオブジェ作品のようだ。
オブジェも出してもらいたいが今回は写真だけの展覧会をやってもらうことにした。
写真家でない絵描きの写真作品だけに余計に新鮮に映る。

アトリエを後にしてテンペラに戻りシャンパンで乾杯。
大月氏の友人で彼の絵を元にビーズで作品を作るこれまた美人のモコさんも加わり小さなスペースの中だが賑やかなひと時を過ごす。
テンペラを出るとルーブルの周辺がライトアップされ石造りの古い建物が夜空に浮かび上がり幻想的な雰囲気を醸し出す。
美術館の中庭に立って見ると中世の中に自分が佇んでいるような錯覚さえ覚え心地よい臨場感に包まれる。
ルーブルの美術館の中にあるMARLEYで夕食をとることにした。
フランス語のメニューではちんぷんかんぷんで大月氏に任せることにした。
フォアグラ、ホタテのマリネ、カレイらしき魚料理、エスニック風春巻き、ヒレステーキといったところが出てきたがあっさりしていてそれほど重くなく食べることができた。
ルーブルの広場で2月の個展での再会を約し大月氏たちと別れメトロに乗ってホテルに帰る。
たった一日のパリだったが中身の濃い一日を過ごすことはできた。

1月7日

12時の新幹線でリヨンに向かう。
パリから2時間の車中の旅は快適で緑の田園風景とお菓子の家のような家並みが延々と続きいくら見ていても飽きない。
リヨン駅にはギャラリー・マチュ−のマダムが迎えに来てくれていて頬を寄せ合うフランス式挨拶で出迎えてくれた。
車で彼女が予約してくれたホテルに向かう。
このホテルには一寸びっくり。
古いホテルとは聞いていたがあまりに貧相なホテルでかなり腰が引ける。
せっかくマダムがとってくれたので我慢することにしたが重い荷物を抱え薄暗い階段を踏み外さないように3階まで上がるのも一苦労。
部屋も簡易ベッドに折りたたみ式テーブル、学生が使うような木枠に布を垂らしたような洋服掛けときてはさすがの私も思わず帰りたくなった。
ブーブー言う女房を2日間の我慢と宥めすかしたが寝返りもうてないようなダブルベッドでは夜中に思い切り蹴飛ばされそうで気をつけなくては。
夕食に彼女が迎えに来てくれるまでホテルの裏手の山の頂上にあるフルヴィエール大聖堂に出かけることにした。

長い石畳みの坂道を上り途中のロザリオ庭園を抜けると壮大な中世の教会が現れる。
そこから見るオレンジ色の屋根が連なるリヨンの町並みも壮観だが教会の中のモザイクやステンドグラスの豪華さにも驚かされた。
リヨンのこうした史跡が世界文化遺産に指定されたのがよく判る。
帰りは坂道ではなくまっすぐ延びる急な階段を下りると狭い路地に目を楽しませるお店が立ち並んでいる。
マリオネットを見せてくれるお店や盆栽を売っているお店、巨大なキャンディを売る店など見飽きることがない。

6時になるとホテルにマダムが迎えに来てくれて彼女の家に向かう。
そこには彼女のパートナーで一昨年うちで個展をしたチェコスロバキア出身のムッシャさんが来ていてシャンパンとマダム手作りのリヨン伝統のお菓子で歓迎してくれた。

彼女のアパートメントは豪華なシャンデリアに大理石に縁取られたマントルピース、高級なアンティーク家具が置かれた建築雑誌に出てくるような素晴らしい家で予約してくれたホテルとのあまりの格差に驚かされた。
きっと以前に日本に来て私の河口湖の家に泊まってもらったことがあったがその時の印象でそれにふさわしいホテルをとってくれたのかもしれない。
夕食は独特の肉料理が自慢のレストランへ。
下から火で暖められた大きなプレートに肉のたたきの様に薄切りにされた肉が大量に盛られ秘伝のソースがかけられている。
更にはこれでもかというくらいのフライドポテトが各自の皿に盛り付けられる。
必死になって肉とポテトを食べるのだがなくなるや否や肉とポテトがムッシャさんの手で加えられまさにお肉とポテトのわんこ蕎麦状態になる。
ソースが独特の風味でおいしく大きなお皿に盛られたお肉をみんなであっという間に平らげてしまった。
昨年からダイエットをしていたのだがここに来てすべて水泡と帰した。
明日はマダムの娘さん二人が別々にフレンチレストランを開いていて昼夜とそれぞれの店に連れて行ってくれるそうだ。
こうなったらダイエットなど糞食らえである。

1月8日

朝食後歩いてギャラリーマチューへ向かう。
寂れた路地を入ると数軒の大きな画廊が見える。
その中でもひときわ大きいのがマチューである。
昔の絹製品の倉庫だったところを画廊にしているとの事。
絹製品はリヨンの代表的な特産品で絹製品を売る店も多い。
マダムは10年前に以前のスペースから引っ越してきたのだが、その時広いスペースが欲しくて裏通りの汚い所だったが思い切って借りることにした。
それが良かったのかその後広いスペースを求めて何軒もの画廊がここに移ってきた。
それにしても広い。
天井の高さが5メーターはあるだろうか、広いスペースが3室、その一つはグランドピアノが置いてあるが広いスペースの中では小さく見える。
他に版画やドローイングを飾るスペース、2階にはオフィス、更に驚くのはストックスペースが巨大で2室あり、その奥にはムッシャさんのアトリエもあるという贅沢さ、うらやましい限りである。
パリの画廊が小さかっただけに余計に際立つ。
パリとリヨンの地価の違いだそうだ。
ムッシャさんの絵がたくさん並べられていて早速来年の個展の打ち合わせをする。
ポートレートのシリーズがとても良く、前回発表した風景も色彩が強くなりインパクトがある。
四国を廻った時に見た滝の絵も面白い。
これはいい展覧会になりそうで来年1月にやりましょうと言うと大喜びであった。

昼食は昨日マダムが言っていた下の娘さんのレストランに連れて行ってもらった。
おしゃれなお店でいかにもフランスの家庭料理を食べさせるといった雰囲気のお店である。
エプロンをした娘さんが笑顔で迎えてくれる。
彼女がシェフでご主人がケーキを作っているという。
私と娘は魚、家内と娘の旦那は鴨を頼む。
その前に出てきた野菜のスープがすごく美味しくて丁度ミネストローネのようだった。
家内たちは太いねぎをソテーしたようなものが出てきてこれも美味しそう。
食べきれないくらいの量でその上にデザートの大きなケーキで胸焼けがしてくる。
ほとんど満席で美味しいお店であることがよく判った。

マダムたちと別れてリヨン美術館に行く。
家内が疲れてしまいホテルで休むことにして3人で行くことになった。
ホテルのすぐそばの広場に出ると水の流れる大きな彫刻がどーんと見えてくる。
その前が美術館で静寂感に包まれる中庭を抜けて美術館に入ると見上げるような天井の上まである最後の晩餐をテーマにした絵が目に飛び込んでくる。
地下にはロダン、マイヨール、ブールデルなどの彫刻が、上3階には回廊を廻るように古代文明の出土品から各国の美術品が時代を追って展示されていて、近代美術にたどり着くまでにはへとへとになってしまった。
印象に残るというより全部見るぞという達成感だけで廻ってきたみたいで、他の場所にも行きたかったが家内同様に私だけ先にホテルに帰らしてもらう。
夜はまたマダムたちとルーマニア出身の画廊のスタッフの女性も加わり、ホテルのすぐ裏にある上の娘さんがやっているレストランに案内してもらう。
雨がそぼ降る中を暗い石畳を歩いているとフランス映画の一場面に自分たちが迷い込んだような錯覚に陥る。
これまた映画に出てくるような古びた扉を開けると中は山小屋風ですでにたくさんのお客さんで一杯である。
ここは伝統的なリヨン料理を食べさせてくれるお店だそうで、私たちと娘は魚のスフレ、ジェレミーはレンタルというお豆みたいなものとソウセージが分厚い鍋に入って運ばれてくる。
マダムが頼んだソウセージは大根の輪切りのように大きくとても食べられそうにない。
料理が運ばれる前に出てきたサラミが美味しくてついつい手を出しているうちにそれだけでお腹がいっぱいになってくる。
昼といい夜といい観光客では食べられないようなフランスの家庭料理が食べられ大満足の一日であった。
パリ同様にリヨンも短い旅だったがこうして現地に知り合いがいることをこれほどありがたいと思ったことはない。
明日の朝はパリを経由してフランス自慢の超特急でアムステルダムに向かう。

1月9日

リヨンともお別れ。
安ホテルだけあってホテル代は驚くほど安かった。
きっとマダムがわが画廊の財政状態を心配してくれたのだろう。
マダムが駅まで車で送ってくれる。
食事から送り迎えまで何から何まですっかりお世話になってしまった。
来年の個展でムッシャさんの作品が売れなかったらどうしよう。
パリもリヨンも小雨が降ったり止んだりの天気が続いたが気温は東京より暖かく寒さを覚悟していたのが拍子抜け。
お陰で町を歩いてもまったく苦にならなかった。

新幹線を乗り継いでパリからアムステルダムへ。
リヨンからパリまで2時間、パリからアムステルダムまで4時間の旅である。
大きな荷物を担いでの移動はかなりきついが娘たちが段取りをしてくれたので文句も言えず、駅の中をごろごろとトランクを引きずって歩くうちに腰が痛くなってきた。
強行軍のしわ寄せがそろそろ出てきたようだ。
夜8時にアムステルダムに到着。
駅のすぐそばのホテルにこれまたトランクを引きずりながら到着。
アムスの印象は夜のせいもあってかなんとなく薄暗くて不気味。
リヨンでは夜の裏通りでも安心して歩けたがアムスでは女性の一人歩きはやめたほうが無難。
疲れているのでホテルの目の前にあるスープレストランで簡単に済ます。
スープは味噌汁以上にしょっぱく、昼にパリの北駅の前で食べた中華ランチ同様まずくて食べられたものではない。
やはり知っている人に案内してもらうのが正解。
リヨンと違ってホテルは広くて快適。
何とかクラブシステムというのに娘たちが申し込んでくれていて、6階のラウンジでは飲み物からサラミ、チーズ、野菜スティック、果物まで自由に飲み食いして言いということで、外で足りなかった分をここで補充して一息ついた。
これで満足して眠れそう。

1月10日

歳のせいか疲れていても5時ごろには目が覚めてしまい、すかっりヨーロッパ時間に身体が馴染んでしまった。
フランスでもそうだったが朝8時を過ぎても真っ暗で、その上今日も雨模様ときては気分もふさぎがち。
誰の行いが悪いのかこう毎日雨模様ではうんざりする。
救いは暖かいことで以前だったら冬は運河が凍りその上でみんなスケートに興じるほど寒かったのだが、10年ほど前から全くそうしたこともなくなったそうだ。
午前中に山本麻友香展を開催中のギャラリーキャンバスを訪ねる。
キャンバスに電話をすると昼前には娘さんを迎えに行かなくてはならないので僅かしか会える時間がないと言う。
前もって行くことを知らせていたのにこちらはリヨンのマダムとは大違い。
アムスの中央駅から30分ほど電車に乗って周りに何もないような殺風景な駅に着くとそれでも車で迎えには来てくれた。
周りがレンガ造りのアパートメントしかないようなところに画廊はあり、こんなところにお客さんは来るのだろうか。
画廊は消防署の後を使っているだけに大きく、便利さより大きさをとるにはこうした遠くでなくては難しいのかもしれない。
山本麻友香の絵は150号の大作など半分ほどが売れたと初日に訪ねた彼女から聞いていたので、ほとんど売れてしまっているのでは思っていたがその後は動いていないようでちょっとがっかり。
何点かは商談中とのことだが果たしてどうなることやら。
広いスペースをいくつかのパテーションで区切っていて、松浦なんとかと言う東京画廊でやっている漫画みたいな絵を描く作家や中国の今や大人気のジャン・シャオガンの展覧会も同時に開催していた。
話もそこそこにまた彼の車で市内への最寄の駅に送ってもらうことになった。
今回の一番の目的がこの展覧会の視察と今後の話をするつもりでいたのだが僅か20分足らず画廊にいただけでまったくの拍子抜け。

そんな訳で時間もだいぶ余ったので明日行く予定をしていた国立美術館とゴッホ美術館に行くことにした。
市電が街中を縦横に走っていて、その市電に乗り美術館に向かう。
どちらもゴッホ、レンブラント、フェルメール等の代表作の実物を目の当たりにして大感激。
有名な作品だから良いと言うわけではなく、同時代の作家たちの絵と見比べても際立っていて、長い歴史の中でいいものだけが評価されていくのがよく判った。
美術館を出ると目の前にオランダが世界に誇るダイヤモンドの研磨場兼展示場があり、女房や娘が目ざとく見つける。
私と娘の夫は何とか無難にこの場を切り抜けるのに必死で見学どころではない。
閉まる直前だったこともありなんとか平穏無事に通過することができ一安心であった。
キャンバスさんのお陰で今日は早めに夕食も済ませのんびりと部屋でくつろぐことができた。

1月11日

今日は雨と強い風。
こちらに来て初めてウッ寒いと感じる朝となった。
ホテルのすぐ横というよりアムステルダム中央駅(東京駅のモデルになったところ)の目の前の運河からカナルバスに乗り寒さをこらえて市内観光。
先ずは花市場へ。
冬というのに色とりどりの花が並び、オランダ名物のチュ−リップの種類の多さに驚かされる。
もっとゆっくり見たいのだが強い風に身体ごと吹き飛ばされそうで必死。
昨日家内が買ったゴッホのアイリスの柄の傘があっという間にばらばらになってしまった。
ボートはそんな強い風にもびくともせず、運河をゆったりと進んで行く。
レンガ作りの古い建物が立ち並ぶ町並みを運河越しに見ながら次の停留場へ向かう。
フリーパスを買うと乗り降りが自由なのだが今日はそんなに廻れそうもない。
レンブラントの生家を訪ねてみる事にした。
約350年前の画家のアトリエは豪勢でその当時の画家の生活がしのばれる。
それでもレンブラントは今では代表作となっている注文で描いた「夜警」の絵の評判が悪く、その後困窮しこの生家を売りに出している。

近くの運河沿いに一軒だけポツンと建っている可愛らしいカフェがあったのでそこで昼食。
中にはいると家全体が傾いていて、この風で家ごと吹き飛ばされるのではないかと心配になる。
オランダ風コロッケをはさんだ簡単なサンドイッチを食べたが、暖かなコロッケが冷えた身体にはなんとも言えず美味しい。
ここからあきらめてホテルに戻ることにした。
娘夫婦が夕方パリに戻り、ローマに向かうのでここでお別れ。
二人は一年遅れの新婚旅行を兼ねていて、住んでいるシドニーからシアトルの近くにある彼の実家に行き、そこからロンドン、パリ、リヨン、アムステルダム、ローマと約4週間の旅行である。
二人が何から何までお膳立てをしてくれて、私たち夫婦にとってはまったく何も煩わされることのない快適な旅で二人には感謝である。
あと一日は二人だけになるのだが、何とか自立をして無事旅行を終えたい。

1月19日

ヨーロッパから帰ってきて1週間が経とうとしている。
帰って直ぐに河原展の展示・初日、ディーラーズ・オークション、組合の役員会、新年会がたて続きにあったりで、旅の疲れも癒すことなく今年も仕事に追いまくられている。
幸いと言っていいか時差ぼけはなく、そのまま日本時間に体が順応してしまったのか昼間に眠くなる事もない。
向こうも暖かかったがこちらも暖冬で、地球温暖化は一段と進行しているようだ。
寒くないのは身体にとっては有難いが、四季の味わいが年々薄まってしまうのは悲しい。
特に日本のように四季の移ろいがはっきりしていて、その変わっていく情景を愛でるのが日本の美意識でもあるので、こうした自然現象が変わってしまうことで日本人の精神構造までが無味乾燥なものになってしまうのを危惧している。
そうでなくても昨今の悲惨な人間の尊厳さえも否定するような事件を見ていると、そう思わずにはいられない。
四季を愛でる心は美術を楽しむ心にも通じるわけで、自然の移ろいがなくなっていくのならせめて画廊や美術館で美を楽しむ心を育んで欲しい。
そうすることで少しでも悲惨な事件が減る事を祈る。

1月20日

今日は展覧会最初の土曜日とあって大勢の人で賑わっている。
展覧会の主人公河原朝生は大変な照れ屋で人に会うのも大の苦手。
そんな事もあって本人からは個展の案内状を一枚も出さない。
今日も画集に掲載されている作品を数多く持っている方が偶々新聞に出ているのを見つけてやって来た。
私どもでは初めての方で勿論お知らせする事も出来なかったのだが本人からも知らせがこないのでここ数年作品を見ることさえ出来なかったそうだ。
そんな風だからコレクターの方が来て紹介しようとしても壁の隅っこにへばりついて小さくなっている。
そこがまた河原朝生らしくていいのだがせめて知り合いの人ぐらいには案内状を出してもらえないだろうか。
今日は大勢のファンに囲まれたじたじの一日だったに違いない。

1月25日

一昨日の業者のオークションに東山魁夷の版画作品が多く出品された。
それは復刻ですか?新復刻ですか?の声が飛び交う。
その違いがわからない。
元々は日本画の作品を元にエスタンプ(複製版画)と称される版画作品が多数作られたのだが、こうした複製版画を主に扱う業者の中ではこれらはオリジナル版画の部類に入っていて、そうした版画を元に復刻版画が作られ、更にその復刻版が作られるようになってそれを新復刻と呼ぶらしい。
その違いは落款が図柄の中にあるか、枠外にあるかといったことで見分けるようだが、そうした違いだけで価格は段階的に大きく違っている。
どれも見た目は全く同じだけにその価格の大きな違いを見分けるのは難しい。
私どもでさえ判らないのだからお客様はどのように判別したらいいか全く判らないだろう。
こうした版画の制作を許可する方もどうかと思うが、儲かれば何をやってもいいという版元にも問題がある。
その版元に大手新聞社や出版社が名を連ねているのだから何をかいわんやである。
新聞や雑誌で版画の詐欺商法を糾弾したり、美術業界の透明性を説く一方で、こうした版画作品を高い価格で販売する姿勢は如何なものだろうか。
今やらせ番組が問題になっていてメディアが大きく取り上げているが、どちらも消費者を欺くのには変わりなく、目くそが鼻くそを笑うように思えてならない。

1月27日

先日、クリスティーズの副会長ジョナサン・レンドル氏が来日し、お訪ねしてお話する機会があった。
その折クリスティーズオークションで高額で落札されている日本人作家について尋ねてみた。
すると、村上はもう厳しいのでは、草間は私にはよくわからない、奈良はいいと言われた。
奈良は何故いいのですかと言うと、まだハンドバックを作っていないからと茶目っ気な答えが返ってきた。
益々盛んなニューヨークや香港オークションで果たして今年はどのような動きとなるのだろうか。
オークションの価格が必ずしも芸術的評価を高めるわけではないが、これからは日本国内だけでの評価ではなく国際的な視野で作家の評価が求められる時代になってきているだけにオークションの動向も見逃すことは出来ない。

1月31日

今週の土曜日から大月雄二郎展、続いて合田佐和子展と続く。
昨年からの桑原弘明展、先週までの河原朝生展と合わせ、昨年開かれた封印された星たち展のメンバーである。
現代美術・幻想絵画を支えてきた美術評論家・瀧口修三、巌谷國士と関わりのあった作家達である。
大月、合田は共に1960年代に一大センセーショナルを巻き起こした唐十郎率いるアングラ劇団「状況劇場」の俳優であり、ポスターを描いた団員であった。
その当時は東京オリンピックや大阪万博などが開催もしくは準備をしている時期で、戦後の混沌期から脱却し、日本が大きく成長する変革の時期であった。
その中にあって、体制の大きな転換に戸惑う多くの若者達がそのエネルギーを発散すべき場所を求め、そのはけ口を学生運動やアングラ活動に見出していった時代でもあった。
私の父が経営していた新宿の椿近代画廊の目の前には戦後文化の礎ともなった新宿ゴールデン街、その横には花園神社があり、近くの風月堂にはヒッピーと呼ばれるフウテン集団がたむろするなどその時代を象徴するよな若者達が集う場所であった。
その花園神社の境内に1967年突然紅テントが建てられ、そこで唐十郎率いる演劇集団が公演を始め、その劇団が「状況劇場」となっていくのである。
それと時を同じくして寺山修司率いる「天井桟敷」が生まれアングラブームとなっていく。
この二つの劇団は時にはぶつかり合い、白化粧や着物姿の芝居そのままの姿で劇団員同士の大乱闘をするなど世間を騒がす事件なども起こし、その中には大月雄二郎や今や人形作家として活躍する四谷シモン等も加わっていたようで、こうした激しさは70年安保の全共闘世代に受け継がれていった。
状況劇場からは前述のようにアートの世界や前衛舞踏に転出していった者もいたが、俳優としては李礼仙、麿赤児その後に続く根津甚八、小林薫、佐野史郎などの名優を輩出した。
この時代に熱狂した若者達はその後団塊世代として日本の高度成長を支え、今や定年期を迎え2007年問題を抱える世代となり、時の流れの有為転変に感慨深いものがある。
私が育まれ、同世代が驚喜乱舞した新宿・花園神社から生まれ、激動の時代に生きた大月・合田の展覧会を開く事になったのも何かの因縁を感じずにはいられない。

2月2日

昨日うれしいニュースが二つ。
二つとも山本麻友香関連だが一つは依頼されていた夏の倉敷美術館での展覧会の予算が正式におりることになりましたとの電話をいただいた。
若い日本画家との二人展になるそうだが、2004年以降の主要作品が一同に展示される事になる。
所蔵家の方には改めてお願いする事になるが、その時はよろしくお願いをいたします。
夏休みの時期と重なるので、お時間のある方は倉敷の町の散策をかねて是非お出かけください。
もう一つは財団法人東日本鉄道文化財団・東京ステーションギャラリーで今年暮れから来年にかけて「現代絵画の展望」展が開催される事になり、世界で活躍中の40代を中心に30代から70代まで12名の作家による企画展で、彼女もそのメンバーの一人に選ばれた。
草間弥生、リ・ウーハン、加納光於、篠原有司男、堀浩哉、辰野登恵子、小林孝亘、山口啓介、丸山直文、大岩オスカール幸男、曽谷朝絵といった作家達に交じって大作を2点出品する事になっている。
現在は東京駅のリニューアルでギャラリーも休館中だが、新橋の鉄道歴史展示室、上野駅ガレリアステーションギャラリーの2ヶ所で開かれる事になっている。
こうした現代作家の新作企画展を継続しながら、2011年の東京ステーションギャラリー哉オープンの際の収蔵品展、常設展示に繋げることを考えているようだ。
こうしたこともあって彼女も世間に多少知られるようになったが、その有名税というかこんな事があったので紹介する。
偶々本人が見たということで連絡があったのだが、パソコン関連の週刊アスキーの広告ページにこんな写真が載っていた。
似ていると思いませんか。
以前にも私のところで発表された作品が盗用されて広告で使われたケースが度々あったが、心しなくてはならない。

2月3日

私はオープニングパーティーがどうも苦手である。
私がお酒が飲めないという身勝手な理由もあるのだが、一番嫌なのは作家仲間の宴会になってしまうからだ。
大事な初日にわざわざお出でいただいた肝心のお客様がゆっくり作品を鑑賞する事ができない。
初日にお客様に作家の自己紹介があったり、作品の解説をするなら別だが、酒飲み集団が真中で気炎を上げていては入ってきたお客様も腰が引けてしまう。
旧交を温めるなら展覧会終了後の二次会でやって欲しいと思っている。
そんな事もあって私のところの展覧会では極力作家に頼まれてもお断りをしている。
と言いつつ今回の大月展、次の合田展ではオープニングをやる事になった。
二人とも私のところでは初めての展覧会でもあり、お二人の交友も幅広く、新たな出会いを私も期待して特別に開く事になった。
そして写真のような状況である。
皆さん紳士淑女ばかりで熱心に作品を見ていただいているようで一安心。

2月5日

アートソムリエ山本冬彦氏の紹介でラジオNIKKEIの「文化支援物語〜アートワールドを行く」に出演しアートについて30分お話をさせていただいた。
アートは誰でも触れ合い、楽しめるものだと言う事を、このラジオ番組を通じて多くの方に発信し、普及する役割を担っていきたいと言う番組で、私達ギャラリストにとっては願ってもない番組である。
既に多くの美術関係者が出演していてアートについて語っているので、特別私が話すことはなくてインタビュアーの質問に答える形で殆どが画廊の宣伝をさせていただいた30分であった。
放送は2月27日(火)のラジオNIKKEI第一 17:00〜17:30だがラジオNIKKEIサイト・オンデマンド放送で放送週の金曜日から2ヶ月間 いつでも聞けるようになっているそうである。
出演させていただいて大変申し訳ないのだが、ラジオNIKKEIがあることも知らず、ましてやオンデマンドとはなんぞやと言った体たらくで、果たして自分が出た番組を聞くことが出来るかどうか心配であるが、皆さんは当然ご存知でしょうね。
更に私のところではパソコンのスピーカーもなく音声が全く聞こえない状況では聴くことさえ不可能で、山本氏にスピーカーぐらい買いなさいとお叱りを受けた。
と言う事で、ご興味のある方は下記のサイトにお入りください。

文化支援物語 http://www.radionikkei.jp/art/

2月6日

今日から5日間ほどベトナムに出かける。
私が所属している奉仕団体で奨学金を出しているベトナムの戦災孤児や貧しい子ども達に会いに行ってくる。
戦後日本の大学で学んだベトナムのグエン・ドク・ホウさんが日本への恩返しも兼ねて日本語学校を開いた。
そこを拠点に困難な環境の中で向学心を持ち続ける子ども達に就学の機会を与えようと「青葉奨学会」を設立し、その支援を続けている。
以前にも一度出かけたことがあり、その時には最後の日にホテルでアイスクリームを食べて、それから一ヶ月ほどひどい下痢に悩まされた事があったので、食べ物だけは注意しなくては。
また日記で報告させていただく。

2月17日

展覧会中にベトナムに出かけてしまい、帰ってきてからはたまった仕事を片付けるのにおおわらわで、ようやく日記を書く時間が取れた。
ベトナムでは里子の子ども達に会い、学校に通うのに何時間もかかる子ども達のために自転車を20台を贈呈した。
お世話になっている日本語学校のホーエ校長先生に学用品にでもと思って5万円を持っていったのだが、これで20台の自転車が買う事が出来るから驚きである。
ホーエ先生の日本語学校はドンズー日本語学校と言い、「東に遊ぶ」と書く。
20世紀初頭ベトナムの愛国者ファン・ボイ・チャウはフランスからの独立運動の若い指導者を日本で育てようと「東遊運動(日本に学ぶ)」を起こした。
日本で若いときに学んだホーエ先生はこの言葉に因むと共に、日本への恩返しの意味もこめてこの名を記した日本語学校を創立し、苦労の末、今や5000人の生徒が日本語をここで学んでいる。
その多くが戦争孤児や貧しい家庭の子ども達で、この子達の学費の支援を貧者の一灯ではあるが友人達と続けている。
5年前に訪れた時に比べ貧しい国であったベトナムは目を見張るような成長を遂げ、物売りの子ども達はまだいるが、物乞いをする子ども達を見かけることはなくなった。
雲霞の如く現れるオートバイの大群も、以前はボロボロのオートバイに4人も5人も乗っていたものだが、二人乗りさえも少なくなっていた。
残念なのは街中でたくさん見かけたアオザイ姿の女性が少なく、今風のファッションになってしまった事である。
一昨日麻生外務大臣の講演を聞く機会があったが、その中で日本に学んだ台湾、シンガポール、マレーシアなどの国は見事な復興を遂げたが、社会主義諸国やフィリピンは未だに貧困にあえいでいると言う話をしていた。
そのことを考えると、世界でも有数の貧困国であったベトナムの復興はホーエ先生たちの努力もあって、大きく成長を遂げようとしている。

2月18日

大月展も昨日で終了。
皇族から映画監督、歌手と大月氏の交際の広さには驚かされた。
あの飄々とした味わいとユーモラスな語り口が人をひきつけるのか大勢の人が訪れた。
お陰で私も新しい知己を得る事が出来た。
そうした以外にも昨日は大月展の新聞記事を見たというセレブな奥様が訪ねてこられた。
聞いてみると次回開かれる合田佐和子作品を30点以上持っているとのこと。
合田佐和子の新作展が私の画廊で来週から開かれる事も知らずに新聞の写真で大月作品に興味を持って初めて私どもに来たと言う。
偶然の事とは言え、出会いというのはそんな事かもしれない。
先の河原展でも同じように新聞で見たと言って来られたご夫人も河原作品を数多く持っていて、私のところでも河原作品をコレクションしていただける事になった。
鉦や太鼓をかき鳴らしても画廊と言うところは中々入りづらいところで、こうした人と人との繋がり、偶然の出会いによる事が多く、そうしたお客様に支えられてここまで来たと言っても過言ではない。
そのためにも私は画廊の外でも可能な限り出会いの場があるところには出かけるようにしている。
先日の忙しい最中に出かけたベトナム旅行でも造船工学の世界的権威の学者さんやカメラ機器のトップメーカーの社長、名刹の住職などと胸襟を分かちあえる機会が持てた。
仕事に繋がると言った打算的なことではなく、趣味やボランティア活動などを通じて自分の知らない世界を知ることが出来るだけでも有意義な事だと思っている。

2月19日

大月展では版画から油絵、オブジェなど幅広い制作活動をされている中から、敢えて写真作品に絞って発表していただいた。
欧米や韓国、中国ではアートの世界で写真の占める割合は大きい。
同時にマーケットの世界でも他のアート同様に市民権を得ていて、高額な価格で写真作品が取引をされている。
振り返って日本を見てみると、杉本博司や森本泰昌、アラーキーといったところが海外でも高い評価を得ているが、全体から見るとまだまだ市場で認知されているとは言えない。
私も早くから写真の作家でいい作家がいれば紹介をしていきたいと思っていたのだが、どうしてもリアリズム、ドキュメンタリーな作品が多く、自分の中で消化しきれずにいた。
そうこうする内に、写真を素材にオブジェ的な表現をする作家・福田亘・中川正昭という二人の作家に出会い、これだと思ったのだが、残念ながら志半ばで彼らは急逝してしまった。
彼らは写真の枠を超えながらも、写真でしか表現できない作品を発表していただけに、その早い死が惜しまれる。
そんな事もあって、なかなか私が惚れ込む作品に出会えないでいたのだが、大月氏の写真作品を見て、ビビッときたのである。
彼は写真の技術を勉強したわけでもなく、長い間の発表でも写真を作品として見せる事はなっかたのだが、オブジェを構成する中で覚え書きのつもりで撮っていた写真がこれは面白いと言う事で没頭するようになった。
私も構成・演出した写真が写真を専門にした人たちの作品とは違った新鮮さを感じ、パリのアトリエまで出かけて行って作品を見せてもらう事になったのである。
こうして今回の展覧会となったのだが、お越しいただいた多くのお客様に圧倒的な評価を得た事は何よりの喜びであった。
展示した作品の殆どが50号大の大きさであったため、売れた点数としては小さい作品が多くなってしまったが、それでも数多くの作品をご購入いただき感謝にたえない。
新しいものに取り組んでいく姿勢をいつも持っていたいのだが、その成果には時間がどうしてもかかってしまい、時には挫けそうになる時もあるのだが、こうして多くの方の評価をいただいたのは何よりの励みとなる。
5月にも新進気鋭の岡本啓の写真による初めての企画展を予定しているので、同様のご支援を賜りたい。

2月24日

今日から合田佐和子展。
2003年に松涛美術館で発表して以来の東京での展覧会である。
昨年、瀧口修三、巌谷国士に関わった作家達による「封印された星たち」展を開催した折、彼女のアトリエを初めて訪ねた。
家に入って壁に飾られた彼女の作品を見るなり、この作品はうちの画廊の壁に間違いなくマッチすると思い、その場で個展をやりましょうと言ってしまった。
いきなり初対面の男がデートを申し込むようなもので、彼女も吃驚したと思うが、その思いが通じたのか今日を迎えることが出来た。
思ったとおり、どの作品も我が画廊に相応しく、白い壁に彼女のフォーカスされた女優達の顔がぴったりとおさまっている。
そうして一連の絵を眺めてみると、映像世代の今の若い作家達の多くが表現する写真のような表現を、彼女はいち早く手がけていた事が判る。
今に通じる彼女の絵を見ながら、現在の美術のありようを感じていただけるといいのだが。

2月28日

高校時代の友人で大手証券会社の役員をしているT君がアルゼンチン大使と書記官を連れて画廊にやって来た。
アルゼンチンの作家を日本に紹介したいのだがアドバイスが欲しいとの事。
インカやマヤの文化を感じさせるダイナミックな抽象画を描いている作家で、大使館にも大作が何点も飾られているアルゼンチンでは有名な作家らしい。
日本の美術事情がこうした抽象画を売るには厳しい事、そのため取り扱ってくれる画廊も直ぐには思い当たらないとの話をしてあげた。
それにしても自分の国の作家を紹介するために大使自らがこうして画廊を訪ねて来る事に驚かされた。
そのことを申し上げるとそれが私達の仕事ですからと事もなげに言うのであった。
日本の駐在大使たちが自ら赴任地で日本のアーティストの紹介に果たして奔走してくれるだろうか。
以前にもヨーロッパの作家がやってきて、これから大使館に行って、私のために動いてくれるように頼みに行ってくると言った作家がいた。
そんな事やってくれるわけがないと言うと、私達の税金で外国で働いているのだから、そうしたことをしてくれるのは当然だみたいなことを言っていたのが思い出される。
彼我の差を思い知らされた。
多分私ではお役に立てないが、金曜日の夜に大使館でパーティーがあり、是非来て欲しいとの事なので、これもご縁と招待をお受けする事にした。
後で友人が言っていたが、この大使は次は国連大使になる予定のアルゼンチンの有能な外交官だそうで、気さくなおじさん位にしか思えなかったのだが、大変な人とご縁が出来てしまった。

3月1日

合田展が好調である。
見に来る人も多いが売れる点数も多い。
かなりのキャリアの持ち主で、高い価格設定になっているにもかかわらず、既に十数点が売約となった。
勿論以前からの大ファンもいるが、その多くが初めて合田作品を見た方である。
昔懐かしいグレタ・ガルボやデートリッヒ、モンロー、バルドー、ロミーシュナイダーなど往年の美人女優をテーマにしていて、その当時心をかき立てられた人たちの共感を呼ぶ事もあるが、それにも増して離れて見れば見るほど美しさと透明感それに艶っぽさが際立つ絵造りに魅入られるようだ。
若い作家や長い間無名の時代から取り組んできた作家達と違い、美術館や画集で知ることの多い合田さんだけに見に来てくれる人は多いと思っていたが、これほどとは思わなかった。
若い人たちも熱心に見ていて、今の流れに通じる表現がこうした結果となっているのかもしれない。
この後、出身の高知の画廊で個展を予定しているが、売る作品がなくなったらどうしようと思いがけない心配をする事になった。

3月2日

また新たにオークション会社が設立された。
現代美術専門のオークション会社でこの3月中旬に初めてのオークションが開催される。
先発のオークション会社でも現代美術のオークションが盛んに開催されるようになり、新たな分野の市場が出来つつあるようだ。
中国、韓国でもオークションが活発となっていて、私もお客様からの依頼品を持ってソウルに11日から出かけることになっている。
ようやく欧米の市場と連動するようになってオープンな市場が出来てきたように思えるが、日本の現状はまだまだそうではない。
既存のオークション会社もそうだが、出品する側も落札する側も日本ではその多くが画商である。
オークションで儲けようと業者が出品をし、落札した作品は交換会(業者だけのオークション)に出して利鞘を稼ごうとする人が多い。
オークション会社が多くなればなるほど、美術ブローカーの活躍の場が広がると言う皮肉な結果となっている。
こういう状況が続くと結局業者向きの作品だけに市場価値がつき、その他は二束三文となってしまい、従来のクローズされた交換会と何ら変わりない事になってしまう。
また今の日本のオークション会社は殆どが画商との兼業である。
私自身がオークション会社の社長をしていたことがあるのでよくわかるが、画商とオークション会社は元々相対する立場にあり、私もその板ばさみで3年足らずで辞める事となった。
オークションとはそもそもエンドユーザーが何らかの事情で作品を手放し、別のエンドユーザーが落札する事で美術品の価値を支える場である。
ユーザーが主体であれば、美術品の多様な価値観が生まれ、その中で時間の経過とともに高い評価とそうでないものに分別されていくのである。
また参加する人たちの多くは美術品の質よりは如何に安く手に入れるかの方に重きを置くことになり、いわゆる堀出し物を手に入れることでその満足度が得られる。
画商は個展を企画し、お客様に多くの作品を見ていただき、あらかじめ設定された価格の中で、お客様が自分の好みにあった作品を選んでいただくという作品の内容、質に重きを置く立場にある。
中古自動車屋と新車メーカーの違いと言えば分かり易い。
画商とオークション会社が全く別の形で存立し、相拮抗するようになれば、欧米並みの本来目指すべきオープンな市場が確立出来るのだが、その前途は厳しい。

3月3日

スイスの企業から山本麻友香の作品注文がメールで届いた。
調べてみると大きな保険会社で世界の現代美術を集めていて、企業コレクションとしては相当規模が大きいようだ。
ネットで見てみるとチューリッヒ、ロンドン、ニューヨークなどにある会社のビルには日本では見かけないような大きな現代美術作品が展示されていて、羨ましい限りである。
日本の作家はまだ宮島達夫、アラーキーと言ったところしかないようだが、海外の作家は錚々たる名前が並ぶ。
年内は予定が詰まっていて、来年以降に作品が出来るのでそれまで待って欲しいとの返事をした。
すると来年以降でも構わないので是非描いてほしいとの返事である。
更には初めての取引で心配だろうから手付金を入れるが構わないだろうかと言ってきた。
ネットで彼女の作品を知ったと言うが、それだけでこうした注文を出してくるのには恐れ入る。
そんな訳で大作2点を彼女にお願いする事にした。
いよいよインターナショナルな作家になってきた。

3月7日

ここ何日かテレビで見かける方が次々とお越しになる。
今日も紅白歌合戦で豪華な衣装で話題を呼ぶ歌手のMさんが熱心に作品を見ている。
聞いてみると合田さんとは面識はないが友人が持っていた合田作品をなんとしても欲しくて、2点譲ってもらったそうで、今でも大事に鏡台の上に飾っているとの事。
今回も欲しい作品が何点もあって散々迷っていて、2点の作品に絞ってまた連絡をと言う事で帰られた。
一昨日はおもちゃコレクターで知られるKさんがお見えになった。
先の大月展で初めて見えてすっかり大月作品の虜になってしまったようで、今度新たに出来る美術館の立ち上げにも関わっているKさんは、資料を持って行ってそこの館長に大月作品のプレゼンテーションまでしてくれた。
おもちゃのコレクションだけではなく若手のコテンポラリアートをたくさん集めているとの事で、その中には他所で買ったらしいが小林健二の作品も含まれていると聞き、私どもとも長いお付き合いが出来そうである。

3月8日

先日、ラジオNIKKEIの「文化支援物語ーアートワールドに行く」に出演し、その模様がラジオNIKKEIサイト・オンデマン放送で先週から2ヶ月間聞けるようになった。
自分の声を別のメディアで聴くというのはとても気恥ずかしくて、身の縮まる思いがする。
あらたまって話をすると緊張してしまい、よく家内に「エートはいらんよと」とどこかのCMを真似て言われるくらい、間にエーとかエートとかが入って私の話は聞きづらいらしい。
今回も聞きながら、どのくらいエーが入っているか数えていたが、あまりに多くて途中で数えるのを止めてしまったくらいである。
更には自分の声は口の中にこもってしまい、大きな声で人を呼んでも聞き取ってもらえない事が多い。
そんな訳で、話していても聞こえないのではと心配したが、マイクの性能の良さのお陰でその心配はせずに済んだ。
ただこうして自分の声を聞いていると、とても早口なのと、人の話の途中に割り込んでしまう事が多いのに気づかされた。
せっかちな性格がこうしたところにも出ていると反省しきりである。
お耳汚しだが、興味のある方はこちらにアクセスしていただきたい。

http://www.radionikkei.jp/art/

3月9日

昨日はうれしいお客様が見えた。
那須にあるニキ・ド・サンファール美術館の館長のM夫人が本当に久し振りに訪ねて下さった。
勿論合田さんをよく知っていることもあるのだが、二日ほど前にこれからM夫人に会うという方が画廊に見えて、その方から展覧会の様子を聞いて来て下さったようだ。
M夫人はご主人が元大手デパートの社長夫人としても知られるが、ご自身のお金で現代美術を多数集められ、その中でもニキに惚れ込み、巨大な彫刻を集め那須に美術館を創設された。
西武美術館でそのコレクションによるニキ展が開催された際には、あまりに大きすぎて会場に入らず、その当時あった佐賀町エキジビットスペースに一部展示された事があるくらいの世界に誇るコレクションである。
そうした反面、下町育ちで姉御肌の気風のいいM夫人は面倒見がよく、多くの無名の若い作家の支援をされ、彼女に支えられた作家は枚挙に暇がない。
私自身も京橋に新たに画廊を開いた当時は多くの若手作家の作品を買っていただき、苦しい時期にあって画廊を支えてくださった大恩人の一人である。
作品を買っていただくのは勿論だが、心から作家を支えてくれる人でもあった。
私のところで作品を発表していた彫刻家・森亮太が若くして交通事故で急逝した時も親身になって事後の処理にあたっておられた姿が忘れられない。
そんなM夫人も那須に移ってからは疎遠になってしまい、どうされているか気になりつつ月日が過ぎてしまっただけに、今回の訪問は事の他うれしかった。
それも一週間前に転倒して骨折をし、車椅子の不自由な身体でお越しいただいたのには驚かされると共に、心底有難いことであった。
更にうれしいのは、そんな身体で熱心に会場を廻り、合田作品を買っていただいた事である。
今は美術館は息子さんに任せて、ご自宅に戻られたそうで、作品を持ってご自宅に伺う日が待ち遠しい。
高齢での骨折だけにくれぐれもご自愛いただき、一日も早い回復を祈っている。

3月10日

金曜日の朝日新聞の夕刊に「最先端アート引っ張りだこ」という記事が大きく出ていた。
現代美術の市場がないと言われた日本に変化の兆しが現れているということで、日本橋高島屋美術部に現代美術専門ギャラリーがオープンするといった事や五都美術商連合会が主催する展覧会にも日本画部門に町田久美や松井冬子といった若手作家が出品をするといった内容である。
私も高島屋の担当者から相談を受けていて、以前にも高島屋は現代美術に取り組もうとした事もあって、新しい分野の開拓には積極的な百貨店だけに、お役に立てればと思っている。
記事にも書いてあるが、既成の作家に魅力がなくなったことや団体展から時代を担う作家が出にくくなっていることがこうした方向に向わせる大きな要因なのだろう。
ただこうした風潮も独自に作家と共に歩むのではなく、クローズアップされた作家を後からすくい上げる安易な方法のように思えてならない。
西村画廊の社長のコメントのようにそれぞれが独自の視点で現代美術を取り上げていく姿勢が必要ではないだろうか。
現代美術のトレンディーな作家達を従来型の画一的な枠の中にはめ込み、共通の価値観を作り上げようとするなら、それはとても危険な事のように思えてならない。

3月11日

今日から韓国・ソウルとテグに出かける。
2泊3日の強行日程だが14日には美術商組合の理事会・交換会、15日は合田展の最終日と言う事もあって、日曜日を使って何とかやりくりして出かけることにした。
ソウルでは夏に開催されるサン・アート・ギャラリーでのグループ展の打ち合わせとソウルオークションに依頼品を持っていくことになっている。
テグではとてつもなく大きいスペースを持つ新羅ギャラリーと昨年まで韓国画廊協会の会長だった金さんの経営するメキャンギャラリーを訪ねる。
金さんは日韓美術業界の交流に力を尽くした人で、私も金さんに出会ったことで韓国とのお付き合いが始まった。
その金さんが昨年どういう事情があるか知らないが、画廊協会を除名されてしまった。
お国柄政権交代の時には前政権は反対派から強烈なしっぺ返しを食らうようだが、金さんもその渦の中に巻き込まれてしまったようだ。
今回ソウルに行く事を告げると是非訪ねてもらえないかとの事で、私も心配していただけに是非この機会にお会いして名誉挽回のお役に立つ事が出来ればと思っている。

3月15日

韓国に駆け足で行ってきた。
夜中にソウルに着いて翌早朝にはテグに行くという慌しさ。
それでもテグまでの新幹線の旅は快適で、通路デッキにはポット入りのミネラルウオーター、キャラメルやクッキー、おしぼりからイヤホーン、アイマスク、新聞までおいてある。
自由に取る事が出来るらしく、貧乏性の私はこういうサービスに弱い。
テグの新羅ギャラリーは以前に一度訪ねたことがあったが、新たに改装し天井高5メートルにもなる広大なスペースを有し、画廊の真中にはソウルの大きな画廊同様にカフェとレストランを併設している。
丁度、リヒターの展覧会を開催していて、広いスペースにぴったりの作品が並んでいた。
その後、前画廊協会の会長でお家騒動で協会を除名されてしまったメキャンギャラリーの金氏を訪ねたが思いのほか元気で一安心。
彼から新たに発足し、9月に開催される上海のアートフェアーの参加を勧められる。
バーゼルアートフェアーのディレクターなどがオーガナイズしていて、従来の上海のフェアーよりはかなり質が高く欧米の画廊50、アジアの画廊50から60の参加を予定している。
私も11月には参加しようと思っていたところで、それなら9月のフェアーに鞍替えをしなくては。
とは言え、ブースフィーがとてつもなく高く、ワンブース120万円もする。
中国の物価からすればとてつもない値段で、一寸考えさせられる。
北京で三年前に初めて開催されたフェアーの時はワンブース10万円だったから異常なアップ率だ。
ソウルに戻り、私が打ち合わせをしているサンコンテンポラリーギャラリーで偶然出会った小山登美夫氏も、バーゼルの義理もあってそのフェアーには参加を予定しているそうだが、やはりブースフィーの高さには驚いているようだ。
中国もあまり調子に乗ると、きっとしっぺ返しが来ると思うのだが。
それでも参加し、世界に目を向ける韓国の画廊のエネルギーには驚かされる。
サンコンテンポラリーでもついこの前まで、スペインのフェアーARCOに参加し、丁度画廊で開催中の若手彫刻家の作品を完売してきたそうだ。
いつもの事だが、韓国に行くとこうした韓国の画廊の鋭気をもらって、元気もりもりで帰ってくるのだが、日本に帰り数日経つとすっかり萎えてしまうから不思議だ。
よし韓国に負けずに思い切って上海参加してみるか。

3月16日

韓国に行っていつも思うのは、メディアで報じられるほどの反日感情が全く感じられない事である。
今回もテグでギャラリーに行く道を間違え、、地図を片手に歩いていたら、熱心に地図を見ながら道を探してくれる。
それでも判らず、次の人はお店に入ってインターネットを検索してくれる。
結局その人は検索は出来たが、韓国語しか出来ず、大きな声で行き道を教えてくれるのだが、今度はこちらがさっぱりわからない。
そこで更に別の人に尋ねると、その人は画廊に電話をして場所を確かめた上に、なんとわざわざ車まで出してきて画廊まで送ってくれると言う。
果たして日本の人が道に迷った韓国の人をこれほど親切にしてあげられるだろうか。
画廊の人達にも行く度においしい食事をご馳走になる。
借金してでもお客様にご馳走をするのだそうだ。
という訳で、いつも暖かい歓迎を受け感激して帰ってくる。
日本は恥の文化、韓国は怨の文化とよく言われ、日本に対する思いには深いところでは消えずにいる何かがあるのだろうが、私には全く感じられない。
こうした思いをお互いに抱く事で、絆はより強くなっていくのは間違いない。

3月17日

一昨日合田展が終了して一息つく暇もなく、今日から綿引展が始まる。
合田作品は売却品の一部も含めて、30点を4月開催予定の高知のギャラリー大平に送る。
そのため片付け、発送をしながら綿引展の展示をするという慌しさ。
何とか間に合って今日を迎えることが出来た。
ここ暫らく発表をしている彼独自の技法クリアグラフによる作品が多数並ぶ。
元々銅版画家として出発した彼は、登場人物や背景などをパーツに分けて銅版をくりぬき(そのパーツをキャストと呼ぶ)、そのキャストを組み合わせる事で多様な版画表現を見せていたが、それを発展させてガラス絵と同じ技法で透明アクリルの裏に描いた絵を2枚、3枚を組み合わせる事で立体感とクリアな色感を表現する技法を編み出した。
画廊全体がいち早く春を迎えたような明るい色彩に包まれ、心が浮き立つ。
20日夜には東京フィルハーモニーを代表する二人のヴァイオリニストによるコンサート「旅するヴァイオリン」も予定されていて、綿引作品に相応しい楽曲が演奏される。
ここ数日冬に舞い戻ったような寒さが続くが、絵と音楽で一足速い春を満喫していただきたい。

3月22日

一昨日は絵画と音楽のコラボレーションとして東フィルのコンサートマスターを務める荒井英治氏・同じく東フィルの首席ヴィオラニストとして活躍する須藤美千代氏の二重奏を企画した。
綿引氏の作品も今回の演奏会のタイトルでもある「旅するヴァイオリン」に因んで描かれた作品が並び、会場は音と絵画が一体となって美しいハーモニーに奏で多数お越しいただいたお客様にもご堪能いただけたのではないだろうか。
また、荒井氏のユーモアー溢れる解説で、難しい現代音楽の演奏なども身近で楽しみながら聴くことが出来た。
6月の木村繁之展の折には花岡和生氏によるリコーダーのコンサートが予定されているので楽しみにしていただきたい。

今朝の日経新聞の朝刊の文化面で桑原弘明氏が大きく取り上げられた。
365日制作に明け暮れ、それでも一年に僅か数点しか完成しない彼の作品には多くのファンがいて、昨年暮れの展覧会でも毎日行列が出来るほどの大盛況であったが、今回の記事で更にファンが増えるに違いない。
早速にテレビ局からの取材が入ったが、本人が余り乗り気でなくお断りする事となった。
この記事を書いた小川敦夫氏は日経アートの編集長を経て現在文化部に所属し、先般も小林健二を取り上げるなど独自の視点で一般的な美術の枠内に納まらない作家達を取り上げている。
次はどんな作家が取り上げられるのだろうか。

3月23日

画廊の前の山桜が一斉に白い花を咲かせた。
その横の四手辛夷もピンクの花が開き、たちまちこの界隈に春がやって来た。
都会のど真ん中でこうして自然の芽吹きを目の当たりに出来るのは、なんと贅沢で幸せな事だろうか。
高速道路やビルに挟まれた僅かな空間しかないが、私達には何にも変えがたいオアシスである。
桜を眺める人たちの顔つきも一応にほころび、優しさを身にまといながら通り過ぎて行く。
四季の移ろいに心を留める日本人ならではの感性はまだまだ褪せていないようだ。
私も春を迎えて身体が蠢くのか、暫らく中断していた早朝のジム通いを始めた。
冬の間にたっぷりと肉付けしてくれた胴回りも春の到来と共に少しは減ってくれるといいのだが。

3月30日

桜が一斉に咲き誇り、京橋界隈も春爛漫華やいだ雰囲気に包まれる。
綿引展もそうした雰囲気に相応しい作品が並んだせいか、大好評で数多くの作品が売約となった。
明日で終わってしまうのがもったいないようで、出来れば桜が散る頃まで飾っておけるといいのだが。
とは言え次には呉亜沙展が控えていて、その準備をしなくてはならない。
次々に展覧会を企画していて、こんなに忙しくしていいのだろうかと自問自答するのだが、皆さんに数多くの作家の新しい作品を見ていただきたいと言う思いがそうさせてしまう。
またかと言われないよう、次は何を見せてくれるのかと言う期待感をこめた展覧会を紹介して行くよう努めたい。
そのためには作家の皆さんにも常に新鮮で見ごたえのある作品を制作していただく事が先決である。
作家の皆さんよろしくお願いします。

3月31日

GTUで内林猛史の展示が始まった。
いつもは広いスペースを使うのだが、今回は狭いスペースの中にミニ化した作品が並ぶ。
そのどれもが音が聞こえたり、灯りがともったり、はたまた画像が映ったり、プロペラが廻ったりするから遊園地に入り込んだようだ。
古びた箱のふたを開けるとラジオの音が聞こえる。
手のひらより小さい机の引出しを開けると微かな光がともる。
小さな額に入った水晶石からは神秘的な色彩が浮かび上がる。
階段を上がった上にある扉を開けると・・・・・。
綿引展に合わせて来廊した小林健二、間島領一、冨田有紀子、それに綿引明浩も展示の最中にもかかわらず、内林作品を興味深く眺め、何かと質問をしてくる。
飾り付けの手が止まり展示が進まず、私は一人やきもきするのだが。
これでは夜遅くまでかかりそうだ。
月曜日からの暗く閉ざされた小部屋で展開される不思議ワールドを是非堪能していただきたい。

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