Diary of Gallery TSUBAKI

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4月1日

東京都現代美術館で一つ目の女学生を描く事で知られる中村宏展が開かれている。
国立近代美術館ではシュールリアリズムの旗手の一人であった靉光展が、埼玉県立美術館では幻想美術の庇護者であった澁澤龍彦ー幻想美術館、群馬県立美術館では人間とは何かを問いつづけた鶴岡政男展が次々に開催される。
ひと昔前は抽象絵画ばかりを取り上げてきた美術館が期を同じくして幻想美術を取り上げるのはどういうことだろうか。
近代美術と現代美術の狭間にあってどちらかと言うと土俗の幻想絵画は忘れられた存在であった。
死の世界や人間の業を描き、心の奥底に潜む澱のようなもの抉り出す画風は中々一般には馴染まないものであった。
しかしひたすらそうしたテーマを卓越した描写力で描きつづけた作家達もいずれは振り返られる時が来る事を私は願っていた。
その願いが通じたのかここに来て漸くそうした作家達に光が差し込む事となった。
一昨年の若冲・蕭白あたりからそうした流れになってきたようだ。
現代美術の範疇に入るのだろうか会田誠、松井冬子、町田久美と言った新たな作家達も脚光を浴びている。
そうした時代の流れと言うものもあるのだろうが、どこか一つでも独自の視点で、美術館の中にこうした異端と言われる作家達だけをひたすら追いかけてくれる所があっても良かったのではと今になって思うのだが。
小山田二郎、平賀敬、中村正義、谷中安規、藤野一友、日和崎尊夫といった異端と言われる作家達は多い。
果たして次はどの作家に目が向くのだろうか。

4月2日

昨日はエープリルフールで騙されたのかと思うくらいの、いきなり夏の陽気となった。
早いものでもう4月となってしまった。
年をとると一日が長く、一年が早いと言われるが、ついこの前新たな年を迎えたと思ッたのだが。
先日テレビを見ていると、春の桜を来年も見ることが出来るだろうかと、癌を宣告された人が語っていた。
今あることの幸せ、健やかでいられることのありがたみを実感するとともに、限りある人生である事にも思いを馳せた。
学生時代からの親友であった3人の友人が10年程前立て続けに50を境に他界した。
彼等は今真っ盛りの桜を見ることが出来ない。
どんなにか無念で口惜しい事だろう。
ある作家が寿命を逆算して考え、2年に1回のペースで個展をやるとすると、後10回そこそこしか個展はできないと言う。
その僅か10回しかないのだから、悔いのない作品を作らなくてはならないと語っていた。
確かにそうで、後何回この作家の個展を見ることが出来るのかを思うと、一つ一つの個展をおろそかには出来ない。
平均寿命も長くはなったが、やれる事を後回しにしていては、いつ何時出来なくなる時が来るとも限らない。
一年があっという間と感じる年頃になって、余計に今の大切さを噛み締めている。

4月7日

3月末から昨日まで激動の1週間となった。
私が所属をしている画商組合の理事長が突然の事故で入院する事になり、副理事長の私が代理を務めることとなった。
丁度組合の年度末にあたり、決算や通常総会の準備などの仕事が突然私に降りかかってきた。
そういう煩雑さならまだいいのだが、その間に何か突発的な出来事が起きたらどうしようという不安がよぎった。
まさにその不安が的中してしまった。
組合員の一人が破産をしてしまったのである。
組合に対する負債も相当額残っており、その知らせを受けた時には元々白い頭が更に白くなったと言うより総毛立ってしまった。
何でこんな時にと思いつつも、兎に角早急に対応策を講じなくてはならない。
高知の合田佐和子展に合わせて出張する予定でいたが、急遽取りやめその対応に追われる事となった。
緊急理事会を招集したり、弁護士、会計士、銀行、組合員への連絡、兎に角自分では全く経験した事がなく、何から手をつけていいのか判らないまま、気が付くことから手をつけていったが、果たしてどのくらいの事が出来たのだろうか。
理事長の責務の重さと運の悪さを噛み締めつつ、何とか善後策を講じる事が出来た。
5月からは実際に理事長に就く予定になっているのだが、こんな事があると何とか辞退する方策を考えなくてはと思っている。
理事長早く元気になって帰ってきてください・・・。

4月10日

高知での合田展も滑り出しは上々のようである。
出身地という事もあるだろうが、美術館以外で30数点の作品が高知の画廊で展示されるとあって大きな反響を呼ぶに違いない。
今回突発事故で行く事が出来なかったが、画廊も高知市郊外の自然に囲まれた羨ましいような環境の中にあり、是非行ってみたかったのだが。
それともう一つ高知にどうしても行きたかった事があった。
画廊が引越す前に働いていたスタッフの一人が病気にかかり、高知から更に4時間ほどかかる病院で治療を受けている。
丁度いい機会でもあり、遠く離れたところで一人寂しく闘病生活をしている彼女を元気づけようと見舞いに行くつもりでいた。
仕方なく、代わりに私の家内が高知空港からレンタカーを借りて、スタッフの島田の運転で訪ねる事になった。
気丈に振舞っていたそうだが、最果ての地で心細いのか、後5分、後5分と言って引き止められ、治療の時間が迫っていた事もあって、後ろ髪を引かれる思いで帰ってきたそうである。
一日も早く回復し、元気に画廊に顔を出してくれる事を祈っている。

4月13日

月曜日に韓国の新羅画廊のオーナーを連れて、アートフェアー東京のオープニングに行って来た。
コンテンポラリーのスペースは大変な混雑で、まるで縁日の夜店状態であった。
出店数が増えた事もあって、その分通路が狭まり、何を見たかもわからないくらいの混雑振りであった。
それに引き換え、古美術、近代美術を扱うスペースは人も少なく、どこか活気がないように見え、これも時代の流れであろうか。
限られた時間で殆ど見ることが出来なかったため、感想を述べる事が出来ないが、今まで聞いた事がない突然始めたようなギャラリーがだいぶ参加し、その殆どが今流行りのサブカルチャー風作品を所狭しと並べているのを見て、亜流が出てくる事の底の浅さと、青田刈り状態のコンテンポラリー市場の危険性を感じずにはいられなかった。
私は海外の画廊が殆ど参加しない事もあって、出店を取りやめたが、こうした状況続くようであれば、来年の出店も見合わせることになりそうだ。

4月14日

今日から呉亜沙展が始まった。
朝からお客様のところに行っていて、画廊には午後遅くに戻ったが、既に大勢のお客様がお見えになっていた。
最近は土曜日を初日にしたことで、お客様も来易くなったのか、今までの月曜日からとは違った賑わいを見せている。
展覧会前から問い合わせが電話やメールで入り、一部前売りの作品もあったが、早くからお越しいただいた方にも何とかお気にいった作品をお求めいただく事が出来たようで、ほっとしている。
そんなこともあってか、既に半数の作品が売約となり驚いている。
アートフェアーでも若い作家の作品が初日からかなり売れていて、こうした状況に不安な面もあるのだが、今回お求めいただいたお客様は皆長い間のお付き合いの方や他所の画廊で彼女の作品を買っておられる方達ばかりである。
昨日今日慌てて買いだした方とは違って、流れに流されない自分の眼で作品を選んでいる方ばかりなので、正当な評価と素直に受け止めたい。
しっかりとしたコンセプトと卓越した技術をベースに制作をしていることを皆様に評価されたと思っている。
来週からもたくさんの方に見ていただきご批評賜りたい。

4月21日

先週土曜日のシンワコンテンポラリーアートオークションの結果に驚いている。
小林孝亘や天明屋尚、石田徹也といった作家の作品がエスティメート価格の3倍から4倍、中には10倍以上の価格に跳ね上がり1千万円を超える落札となったのには驚かされた。
果たしてこれをニューコンテンポラリーアートの正しい評価と見るべきか、投資ファンドによる仕手合戦と見るべきか、判断は分かれているようだが、私には異常な狂乱バブルの再来としか思えない。
それよりも、昭和48年ごろの若手ブームとその直後にやって来たオイルショックの大暴落を経験している私には同じ轍は踏んではならないとの思いが強い。
これでは本当に絵好きで無名であっても自分の目に合う作家を求めようとしているコレクターたちを見捨てる結果となってしまう。
あの時もそうしたコレクターはおろおろするばかりで、ヘッジファンドの連中が闊歩し、その渦に巻き込まれた画廊や作家達はその後のオイルショックとともに埋没し消え去る事となった。
今まさに同じ現象が起きているとしか思えず、美術を育む環境になかったニューリッチの連中には美術品も投資対象商品の一つとしか思えないのだろう。
一つの作品を何人かで共有するといった馬鹿げた連中もいて、そうした連中はどのようにして作品と向き合うのだろうか。
こうした時こそ、大きな渦に巻き込まれる事なく自分の足元を見つめながら制作する作家達を見極める必要がある。
芸術の仕事とは時代を超え、長い歴史の中で本当の評価を得るものである。
その時だけを面白おかしく生きるのであればそれはそれでいいだろうが、芸術を志した者にとってそれではあまりに寂しすぎる。
直ぐに結果の出ない仕事を選んだ以上、それを天職の宿命と達観し、自分の仕事に邁進すべきと思っている。
そうした高い志とたゆまない努力を続ければ、必ずや人はその価値を見出してくれるはずである。
そういう作家に私達は応えたいし、コレクターにも迷わずその思いを伝えていきたい。

4月23日

日記を見てあるコレクターの方から次のようなメールをいただいた。

 22日、久しぶりに椿原さんの「ギャラリー日記」のサイトを開いた。
過日のコンテンポラリーオークションについて、ギャラリーサイドとしての見解が述べられていたので食い入るように読んでしまった。さすが日頃ギャラリーのあり方に対しても見識ある発言を為さっている椿原さんである。今回の異常落札価も私と同じく 「投資ファンド」 の仕業と見、「異常な狂乱バブルの再来」 と断じている。
今回の異常落札価は過去の経験から従来のコレクターを見捨てるばかりではなく、作家の地道な精進、健全な画廊経営に悪影響を与えると警告を鳴らしているのである。全くむべなるかなだ。
所有するA,B,C,D,・・・作品が全て有名作家であれば、それは特徴あるコレクションとはいえない。それは投資的コレクションというものだ。ならば絵画購入など早く辞めて株でも買ったほうがよっぽどマシなのである。
 再度言う―特徴あるコレクションとは貴方しか出来ないコレクションを目指すことである。それが評価されるのが最大の喜びというものだろう。
長年のコレクターがオークション結果に一喜一憂してどうするのだ。

それぞれお考えがあるだろうが、良識あるコレクターのご意見と受け止めたい。
市場原理の中で美術品が扱われる怖さを何度も経験してきた私には、あまりに短期間で未評価の作家の価格が跳ね上がる危険性を指摘したい。
美術品の価格がその作家や画廊と関係のないオークション会社や投資ファンド等他者の意向で左右され、それに追随する形で本来主体性を持つべき作家や扱い画廊が価格を変動させていく事は如何なものだろうか。
美術品の価格の中には画料とか仕入れ価格、材料費といったコストは確かにあるのだが、それ以上にその作品を扱う画廊の信用というものが大部分を占めていると私は思っている。
その信用度は長い間に培われたもので、コレクターの方の信頼に支えられて出来上がってきたものである。
その信頼をかなぐり捨てて、他人が作り上げた価格に追随するのは信頼し支えてくださったコレクターの方への冒?であり、裏切りである。
作家や画廊から離れて価格が作られるとすると、それは市場原理ではなく歴史的評価や希少性ではないだろうか。
画廊のあり方について今一度考えるいい機会のように思う。

4月25日

ここにきてまた作品処分のお話がいくつも来ていて、倉庫や押入れの中に入り込んで、埃や黴菌と闘いながら作品を運び出す毎日である。
30年程前に私がお世話をさせていただいた作品が多く、その当時は未評価であったり、無名であった作家の作品が、今やそこそこの評価になっていることに時代の流れを感じざるを得ない。
去年からこうした依頼が多いが、コレクションも個人美術館などを作る事がなければ、30年くらいが丁度入れ替えの時期なのかもしれない。
昨日も松本俊介や長谷川利行、野田英雄、鳥海青児、松田正平などの物故作家や水島哲雄、梅野亮などの初期作品に再会し、その当時がとても懐かしく思い出される。
今日は薮内佐斗司、渡辺満といった今や人気作家の初期作品に出会うことが出来た。
金曜日にはこれは友人の紹介なので私は初めて伺うことになるが、日本画の大家の作品が何点もあるそうで、複製品や版画でない事を祈っている。
昨年、横山大観、川合玉堂、東山魁夷といった錚々たる作家の日本画を売りたいとの話が来て、いそいそと出かけたら、複製品やエスタンプ版画ばかりで拍子抜けした事があったので。
画廊以外に大きな倉庫を三つも借りているが、既にそうした作品で満杯状態である。
8月のコレクション展や、オークションを是非楽しみにしていただきたい。

4月27日

日本画の大家の作品が出てくるという事で勇んで出かけたが、案の定、日本画ではなく版画ばかりであった。
ただ、人気絶頂の千住博の大作が出て来て、これは間違いなく日本画であった。
出世作ともいえる作品で、私どもには専門外だが、中々の出来で、今の作品より余程いい。
ただ日本画の世界は不可思議で、常に新作が評価され、それ以前の作品は前書きとされ、新作に比べ低い評価となる。
と言う事は、日本画を買った途端に、その作品は限りなく前書きに向って行くわけで、私にはどうも理解しがたい。
洋画や版画では初期の作品が逆に高い評価を得る場合が多いのだが。
呉展もいよいよ明日が最終日。
お陰で殆どの作品が売約となったが、まさかインスタレーションの作品までが売れるとは思ってもいなかった。
作家にとっては思い入れのある作品だけに、殊のほかうれしかったようだ。
購入してくださった方は以前に私がラジオ番組に出演した折に司会をされた方で、、その時のご縁がこうした形で実を結び、改めて出会いの大切さを認識させられた。
いずれ時を経て、この作品が後世に残った時に前書きとして低い評価を受ける事なく、代表作として高い評価を受けるように祈っている。

4月28日

明日から大型連休。
画商組合の仕事で、突然責任ある立場にたたされた途端に、次から次へとブローカー画商の連鎖倒産が起こり、その対応に追われて気の休まる暇がないままに一ヶ月が過ぎてしまった。
呉展も正直なところ殆どスタッフ任せで、呉亜沙さんに申し訳ないことをしてしまった。
彼女の作品の力とスタッフの努力のお陰で大きな成果をあげる事が出来て正直ほっとしている。
というよりは私がいなくても画廊は何とかなるものだとうれしくもあり、寂しくもありと複雑な心境でもある。
漸く体調も回復してきた理事長に後を任せて、明日からは5月6日までゆっくり休みを取るつもりでいる。
展覧会を開いた事もなく、作家と関わった事もない、ただひたすら交換会から交換会を渡り歩く画商とはとても呼べない連中が、この際一掃されるのであれば苦労した甲斐があるというものだ。
連休が終われば新たな気持ちで画廊の仕事に邁進したい。

5月7日

連休も終わり、新たな展覧会の準備が始まった。
GTUでは恒松正敏の初期作品が並ぶ。
ロックではパンク、アートではシュールと二つの分野で活躍する彼だが、そのシュールの原点となった初期作品を一同に展示する。
私も画集でしか見たことがない珍しい作品ばかりで、その当時からの実力の片鱗を垣間見る事の出来る貴重な展覧会となった。
片や岡本啓の写真展も広い会場のほうで同時開催される。
こちらは新進気鋭のアーティストで、初めての企画展である。
既に東京、大阪、韓国のアートフェアーで紹介されたり、今回のアートフェアー東京のスポンサー企業でもあった(株)モリモトの機関誌「SUMAU]の表紙を一年間担当し、その雑誌はアートフェアー来場者には全員配られたので気づかれた方もいるのでは。
その表紙の作品のうち3点が「APAアワード2007」(日本広告写真協会賞)の広告作品部門で入賞し、注目を集めた。
大阪芸大を卒業し、写真を専門に勉強したのではないが、写真による発表を続けている。
写真といっても実際はレンズを通して撮影するのではなく、印画紙の中の色を光の時間や量によって導き出し、美しい色彩世界を展開する。
アートとフォトの融合といってもいい彼独自の表現を一度見ていただきたい。
その二つの展覧会の初日となる10日までの間、ソウルで開かれるアートフェアーKIAFに明日から駆け足で行ってくる。
毎年参加していたが今回はお休みして、韓国のSPギャラリーのブースで今や日本だけでなく海外でも人気の山本麻友香の作品を紹介してもらう。
昨年は初日に全て売約となったが、果たして今年は?
会場も昨年の倍となり、今やアジア最大のアートフェアーとなったKIAFの紹介は改めてさせていただくので楽しみにしていただきたい。

5月12日

ソウルのアートフェアーから帰ってきました。
今年の会場は今までの倍のスペースをとっていて、欧米、日中を含め208の画廊が参加するというアジアというよりは世界でも有数のアートフェアーとなった。
僅か一日一寸の滞在では全てを見切れないくらいの広さである。
初日から大勢の人が詰め掛、初日ほぼ完売の画廊も幾つかあり、羨ましい限りである。
特に日本と同様に若手作家のニューコンテンポラリーアートに人気が集まっていて、日本のブースでも著名な作家よりは20代の作家の作品に赤印が目立っていた。
昨年私が購入したオーストリアの作家 「コンラッド ウインター」 の作品もドイツの幾つかの画廊から出品されていて、これまた完売となっているのには驚かされた。
日本からも参加はしていないが、視察に来る画廊も多く、韓国市場への関心の深さがうかがわれる。
私のところは今回は事情があって参加していないが、今まで出品をしてきた 「山本麻友香」 「リ・ユンボク」 の作品を韓国のSPギャラリーから出品してもらった。
多くの韓国の方がSPギャラリーが私のブースと思っているようで、また後でブースに行きますと言われ、答えに窮することがしばしばであった。
売る側から見る側に廻って気楽に会場を見て歩いたが、やはりこれだけ広く出店画廊が多いと、作品は先ず目立たなくてはならず、そのためには強い色彩と大きさが必要となり、その上に一人の作家の作品が5,6点以上は並んでないと、見る人の印象に残らないように思えた。
そうした事を考えると費用はかさむが、それなりの広いブースを取らなくては、フェアーに参加し、成果をあげることは難しいのではとの印象を深めた。
上海、北京、ニューヨークなど新しく立ち上がるアートフェアーも幾つかあって、参加を検討しているが、こちらの懐具合も考えながら、どれだけのスペースを取るか思案のしどころである。
まずは大阪でこの7月堂島ホテルで開かれるアートフェアーCASOに参加をする事にしているが、こちらは先日東京のアグネスホテルで開かれたフェアーと同様ホテルの一室がそれぞれの展示ブースとなるので、室内をどう効果的に見せるかが腕の見せ所となる。
否が応でも、アートフェアー全盛の渦に巻き込まれてしまいそうだが、参加するだけのオリンピック精神ではなく、限られた日数の中でより効果的に、更には終了後いかにビジネスにつなげていくかを考えなくてはならない。
忙しい日が続きそうだ。

5月16日

韓国から帰っても相変わらず時間に追われていて、日記を書く暇もなく、さぼるなとのお叱りをあちこちから受けているのだが。
代理を務めていた画商組合の理事長も5月14日から正式に就任する事になり、責任重大でこの後も不祥事の余震が私の所にこない事を祈っている。
画廊では悲しい出来事があり、私どもの元スタッフでこの1月から3月までも週に2,3日手伝ってくれていた女性が土曜日に癌のため亡くなった。
29歳の若さで、美人で明るくて元気で画廊がいっぺんに花が咲くように華やぐ女性だったが、あまりの早い死にただ呆然とするばかりである。
病いを知って、少しでも気がまぎれればと画廊にきてもらっていたのだが、3月の中を過ぎてからは一人高知から更に遠い土佐清水の病院で闘病生活を送っていた。
4月始めには見舞いに行く予定を立てていたのだが、組合での事件が起こりその対応に追われて、行くことが出来なかったのが悔やまれてならない。
代わりに行ってくれた家内と男性スタッフもその時から1ヶ月でこんなになるとは夢にも思わず、ただただ悲嘆に暮れている。
病いから解き放たれ安らかに眠ってくれる事を祈るしかない。

5月18日

昨日は多摩美から大学院での特別講義を頼まれ出かける事になった。
柄にもないのでお断りしたが、気楽に話をしてくれればいいと言う事でこれも勉強と引き受けることにした。
大学側からどうしたら作家を売り出す事が出来るのかといった画商側からの考えでいいと言われたが、そんな事が判っていれば苦労はしない。
さてそれでは何を話そうかと考え、私が作家を選ぶ目安、作家との出会い、私が望む作家像といったテーマで話をさせてもらった。
殆どが私的な話で、学生にどの程度理解をしてもらったかわからないが、兎に角90分の授業を無事終えることが出来た。
驚いたの男子学生が一人か二人しかいなくて、まるで女子美にきたようで、学生食堂で昼食を食べたが、学部の生徒も多くは女子学生であった。。
現状はそのようで、入学してくるのは圧倒的に女子が多いとのこと。
募集で男子何人、女子何人は差別となり出来ないそうで、結果真面目に受験勉強をする女子が多くなるのだそうだ。
授業の後少し教室や構内を歩かせてもらったが、久し振りに大学の雰囲気を味わい、学生当時が懐かしく思い出された。
あの当時は学生運動が盛んで、構内のいたるところに殴り書きされた立て看板が並び、殺伐とした雰囲気だったが、塵一つなく整然としいる構内に、こうした環境だったらもう少し勉強をして今とはだいぶ違った人生を送っていたかもしれない。
帰りに聞いた話でもう一つ驚いたのは、最近学生の絵が盗難にあっていると言う事であった。
中国辺りに売られるという事らしいが、金属だけでなく美術品までもがと思うと同時に、新人ブームもここまできたかとの思いも一瞬頭をかすめた。

5月19日

昨日は全日空ANAが出している雑誌「翼の王国」の取材があった。
6月末に発行される7月号でアートの特集を組み、「東京アート三昧」というコーナーで私のところを含め小山や小柳など4軒の画廊が紹介される事になった。
お薦めの作品や今のマーケットの状況などを話すとともに、私の写真を撮る事になった。
折角の記事も私が出たのでは興ざめで、画廊に誰も来なくなるのではと心配なのだが。
届いたばかりの山本麻友香の大作をバックに数え切れないくらいのシャッターが押された。
数打ちゃ当たるで一枚くらいはましな写真が撮れるかもしれない。
山本麻友香の作品は素晴らしい作品で、彼女もこれ以上の作品はもう出来ないかもしれないというくらいの出来栄えである。
この作品は韓国のグループ展に出品する予定でいたが、これほどの作品を海外に持っていくのは惜しく、来年の個展に出すことにして、何とかこちらのお客様に持っていただきたいと思っている。

5月21日

お客様からのメールでギャラリー汲美のオーナー礒良氏の訃報を知った。
以前からそれぞれの画廊を行き来するお客様も多く、一時は私どもの近くに移転したこともあって親しくお付き合いさせていただいていたが、立ち退きで日本橋の方に移ってからはご無沙汰していただけに突然の訃報に驚いている。
ご自分で絵を描いたり、映画を作られたり、画廊主というよりは作家タイプの人だった。
汲美で展覧会をする作家さんの傾向もオーナーの好みが如実に出ていて、私が好きな画廊の一つであっただけに残念である。
私も還暦を過ぎ、健康が気になる年となったが、周りで同じ年代の友人や知人が怪我をしたり、亡くなったりで、他人事ではなくなった。
今日も同い年の美術雑誌の編集長が来て、厄年で周りに怪我や病人が多いので厄払いに神社に行ってきたそうだ。
私の家内も縁起を担ぐほうで、厄年だ大殺界だとうるさく言うのだが、そちらのほうはあまり信用していないが、どちらにしても身体には気をつけなくてはいけないと思っている。

5月24日

韓国アートフェアーKIAFは大盛況だったようで、先ほども大阪の画廊から出品した呉本氏から大作を含め6点が売れたと喜びの電話が入った。
私どもで何度か個展をしたがそれ程の成果も出せずに申し訳なく思っていたが、韓国で好評だったことを聞きほっとしている。
そのブースでは他の二人の日本人作家も完売で、大成功だったようである。
運送業者も今回は帰りの荷物が殆どなかったと言っていたので大盛況であった事は間違いないようである。
韓国画廊協会の揉め事で意地を張って今回出展しなかったのを少し後悔している。
アートフェアーといえば7月に開催される大阪のフェアーCASOに参加することにしている。
先に開催され好評だった東京の神楽坂のアグネスホテルのフェアーと同様に、それぞれがホテルの一室を使って作品展示をするフェアーで、場所も中之島に近い堂島ホテルという事なので参加することにした。
壁に釘が打てないので、展示方法に苦慮するところだが、ベッドや洗面所など画廊空間とは違った見せ方が出来そうである。
宿泊の予約も申し込んだが、使用する部屋でどうぞお泊まりくださいという事で、寝坊も出来ないしおちおち風呂に入っていることもできないが、合宿感覚で何か楽しそうなフェアーである。
上海のフェアーがキャンセル待ちと言う事で、半ば諦めていて、11月に新たにニューヨークで開催されるACAFというアジアに限定したコンテンポラリーアートのフェアーの説明会が明日あるので、そちらに条件が会えば出てみようと思っている。
KIAF以上の成果が出ればいいのだが。

5月26日

ニューヨークのアートフェアーの説明会に行ってきた。
アジアンコンテンポラリーという事でアジアの作家のみに限って紹介するフェアーで、今バブル状態の韓国、中国の画廊の大手はこぞって参加するそうだ。
韓国の画廊の中には既にニューヨークに支店を作ったり、ビルを丸ごと買って画廊にするところも出てきているようで、その勢いには驚かされる。
当然日本での説明会にもたくさんの画廊が来ているものと思っていたが、思いのほか少なく、その殆どが貸し画廊で、失礼だが1ブース100万円プラス渡航費用など諸々の経費を考えるとそうした画廊が出展するのは難しいように思うのだが。
この違いは何処から来ているのだろうか。
韓国、中国の画廊は今国内市場だけで十分潤っているはずなのだが、目はすでに海外に向いている。
世界的視野での市場戦略の布石を着々と打っているように思う。
日本の画廊の若い人たちも既にバーゼル・アーモリーショウ・ケルンなどの主要なアートフェアーに出て行って、大きな成果をあげているが、韓国、中国に比べて今だの感は免れない。
日本の交換会に出ているとその多くは市場での共通の価値観を作り上げる事に汲々とし、独自の視点で作家を育成しようとする意識に欠けている。
国内だけの価値観ではなく、グローバルな評価を得る事がネット社会の現在にあってはとても重要なことのように思うのだが。
あまり若くない私だが、せめて韓国、中国に遅れをとらない意識だけは失わずにいたい。

5月29日

日曜日に東京都現代美術館で開催中のマルレーネ・デュマス展を見に行ってきた。
南アフリカに生まれオランダを拠点に活躍する女流作家だが、今や世界の現代美術作家の中にあっても極めて高い評価を得ているアーティストである。
以前に大阪の国立国際美術館のグループ展で見た時にも何人かの作家の中で尤も印象的な作家だったので、今回の展覧会はとても楽しみにしていた。
ポラロイド写真や映像をもとにして、生命感溢れる人物像をを描く事で知られているが、人間の根源を抉り出しているようで、これこそが人物画ではと思い知らされた。
アラーキの写真をもとにしたブロークン・ホワイトやガールフレンドといった作品は荒々しいタッチなのに何故か繊細さを感じ、暫らくはその場を離れる事が出来なかった。
日曜日にもかかわらず、人もまばらな会場で、ゆっくりと作品を堪能する事が出来た。
この作家を10年前にいち早く紹介したギャラリー小柳には頭が下がる。
会場のビデオで小柳のオーナーがアトリエを訪ね、嬉々として個展用の作品を見せるデュマスの前でギャラリスト冥利に尽きるといって涙する場面があるが、その気持ちは手にとるようにわかった。

7月に初めての個展を予定をしている夏目麻麦の作品が三点届いた。
深い色の中におぼろげに佇む人物画を偶々他所の画廊で見て惚れ込み、展覧会の依頼をしてから3年が過ぎた。
漸く出来上がってきた作品は期待以上のものであった。
崇高と言っていいだろうか作品を見つめながら思わず目頭が熱くなった。
今大きな流れとなっている絵画とは全く違った重く地味な絵だが、とても深いのだ。
デュマスを見たと同様の心のときめきを感じた。
多分彼女は不器用な作家だと思う。
格闘の末に生まれたのだろうが心打たれる作品である。
小柳のオーナーと同様にギャラリスト冥利に尽きる一瞬であった。
果たしてどれだけの方に理解していただけるか不安だが、それでもいいと思っている。
一人でも同様の思いを持っていただければ、ひとりの若い作家を紹介した意義はあると思っている。

5月30日

月曜日から木村繁之展が始まった。
しばらくは立体作品や油彩画の発表が続いたが、久し振りの木版画での個展となった。
会場が広くなり、銅版画や手摺りの水性木版を制作している人にとっては、どうしてもサイズが小さくなり、壁面を埋めるのに皆さん苦労している。
木村繁之もそんな事もあって油彩画の大作等を試みたが、やはり木版画のほうが彼らしさが出る。
もともと多摩美で木版画を専攻しただけに、水性木版の表現は巧みだ。
かすれるような色を重ねながら透明な世界を浮かび上がらせ、暫し静謐な時の中に佇む自分がいる。
記憶の糸を手繰り寄せたかのようなどこか懐かしい風景の中をそぞろ歩く自分がいる。
浮世絵以来の伝統を引き継ぐ日本独自の木版画の霞むように、滲むように広がる色彩は日本人の心に共鳴するものがあるようだ。

5月31日

私が所属している奉仕団体で高校生を対象とした交換留学生制度のプログラムがあり、毎年海外へ多くの日本の学生を送り出すとともに、海外からの学生を受け入れている。
それぞれが所属する奉仕団体のメンバーの家で一年間生活する事になっていて、私の家でも今年はブラジルからの女の子を預かる事にしている。
この制度の特長として、留学を希望する学生はお互いに希望の国は一応申し出るが、留学先はそれぞれの団体で決める事になっている。
そのため以前は第一希望でない日本にやってきた学生がホームシックになったり、トラブルを起こすケースが度々あった。
ところが最近は日本を第一希望にする学生が殆どで、日本に来ることになった学生は喜び勇んで日本にやってくるようになった。
その大きな理由が漫画だそうだ。
漫画やアニメで日本の事を知り、日本にあこがれるらしい。
漫画通で知られる麻生外務大臣の話を聞いた事があるが、イラクに自衛隊を派遣した折、給水車等のボディーに日の丸ではなく、キャプテン翼の絵を描くように指示をしたそうだ。
それが功を奏したかどうかはわからないが日本の自衛隊の車は一度たりとも砲撃を受けたり、襲撃を受ける事はなかったそうだ。
サッカーのフランス代表の一人であったジタンやワールドサッカーの折にジタンを怒らせ頭突きを食らったイタリアの選手も子供の頃にキャプテン翼にあこがれサッカーを始めたそうだ。
かくのごとく、日本の漫画は世界を席巻している。
今サブカルチャーと言われる日本の現代美術が海外において高い評価を得ているのも、さもありなんである。
そうしたコミカルな絵に眉をしかめる人達も多いが、時の流れを見逃す事は出来ない。
そうした社会背景の必然があって生まれてきた美術品がしかるべき評価を得る事に異論はないが、必然ではなく自分のスタイルを変えてでも今の時代に迎合しようとする美術家達も多い。
その違いを見極めるのが画商の眼であり、コレクターの感性である。

6月1日

最近は訃報ばかりが届く。
表参道のギャラリー弓のオーナーだった和島氏が癌で亡くなったとの報が入った。
4年程前に画廊を閉じてからは行き来がなくなっていただけに突然の報せに驚いた。
家が画廊と近いことや、大学も同期だった事もあって、以前はよく画廊に寄り親しくさせてもらった。
その後、画廊を閉じてからの様子が気になっていたのだが、まさか亡くなるとは夢にも思ってもいなかった。
今や彼の画廊があった所は表参道ヒルズが出来、ひときは賑わいを見せるエリアとなっただけに、その前を通る度にもう少し辛抱して画廊を開いていたらと思っていたのだが。
聞くところによると、画廊を閉めた後はサーフィンに興じ、海外まで出かけては悠悠自適の生活を送っていると聞いていた。
私達の年齢で一線を退く人たちも多いが、どうも仕事をやめてしうと体調を崩す例をよく聞く。
売上や資金繰りで身の細る思いをする毎日だが、仕事を続ける緊張感が健康維持には一番いいのかもしれない。
以前と同様の付き合いをしていたら、そんなに早く隠居せずに頑張って画廊を続けろと言ってやれたのだが。
今は繰言になってしまうがご冥福を祈るしかない。

6月2日

昨夜は木村繁之の作品をCDジャケットに使っているリコーダー奏者花岡和生のコンサートを開催した。
古楽器リコーダーによるバロック音楽に暫し酔いしれる一夜となった。
心に染み渡るような笛の音色は木村繁之の作品に描かれたおぼろげな風景に溶け込み、一体となって会場全体が優しく柔らかな空気に包まれた。
今回は平日の事もあって来場者が少なく奏者には申し訳なかったが、来られた方はより身近で演奏を楽しむ事が出来たのでは。
音楽はかしこまらなくても、自然体で受け入れてくれるが、美術はどうしてもかしこまって見る人が多い。
その垣根を取り払う意味でも画廊で時々はこうしてコンサートを開いて、美術に親しんでもらう機会を作っていきたい。

6月5日

2ヶ月半程前だったろうか、家の近所の喫茶店で、久し振りに出会った歯医者のSさんにずいぶん太りましたねと言われてしまった。
Sさんは家の直ぐ目の前の代々木上原駅構内にあるスポーツジム仲間の一人であった。
新しい画廊に引っ越す前の忙しさにかまけて、長い間のジム通いをすっかり止めてしまった。
彼はその後も通い続け顔も引き締まり、肌もつやつやとしている。
それに引き換え我が身を振り返るとSさんに言われるまでもなく、あの当時の面影は全くない。
家の目の前にジムがありながらこの体たらくで、その上昨年暮れに愛犬が死んでからは散歩に行く事もなくなってしまい、身体はすっかりふやけてしまった。
何とかせねばと思っていた矢先に、Sさんの言葉で発奮し、喫茶店を出てそのままジムに直行、受付を済ませ、再びジム通いを始める事となった。
それからは毎朝7時前にはジムに出かけ、2時間みっちりと身体を動かし最後はサウナに入ってという日課を過ごすようになった。
だるかった朝の身体もしゃんとするようになり、体重もお陰で3キロ減らす事が出来た。
あの当時の仲間達は誰一人としてやめることがなく、鮨屋のUさん・カメラマンのSさん・元板前のAさん・映画プロデューサーのMさんとみんな朝早くから頑張っていて、それはそれは惚れ惚れするような身体になっていた。
私も後一年もすればポッコリお腹も四つに割れているかもしれない。

6月7日

洋画商協同組合が設立50周年を迎え、記念の展覧会とパーティーが開かれた。
さすが50年の歴史の重みを感じさせる展覧会で、明治から現代までを代表する洋画家の珠玉の名品が並んだ。
岸田劉生、坂本繁二郎、佐伯祐三といった日本の洋画史をかざる作家の作品の中にあって、特に目をひいたのは長谷川利行の大作の「海水浴」、三岸好太郎「家族図」であった。
2点ともとても手が出る価格ではないが、売る側もこの価格は売りたくない値段なのだろう。
そういった大家クラスとは別に自分で買うならこの作品と思ったのは織田広喜の初期作品、宮崎進の安井賞受賞当時の女性像で、今の作風とはだいぶ違うが、心に残る作品であった。
残念な事にこれだけの作品を揃えながら、会期が3日しかなく、カタログなども用意されず、節目の展覧会の記録が残らないのが惜しまれる。
21世紀に入って洋画の価値観も大きく変わったが、こうした近代洋画を再評価する意味でも、もっと世間にアピールし、洋画商の力を誇示して欲しかった。
パーティーの挨拶で興味深かったのは、堺屋太一氏の話であった。
これだけの洋画商の歴史がありながら、未だに美術が日常の中に入る事がないのはどういうことだろうか。
日本の美術館の殆どは森の中にあって、街中にはあまり見られない。
これは西欧文化が日本に入ってきた明治期、その当時の官僚達は西欧の文化は崇高なものであり崇め奉るものだと思っていたらしい。
そこで美術館やコンサートホールは神聖な森の中に神殿の如く建てるもので、卑しくも物を食べたり買い物をするような場所に建てるべきものではないと言う考えであったらしい。
そうした官僚達の考えが一般市民にも美術は遥か上のものと言う観念を植え付けたのではないだろうかという事であった。
漸く六本木の真中に国立美術館が出来た事で、そうした考え方を払拭し、美術が日常のものとなるといいのだが。

6月15日

朝散歩をしているとカラスが私の姿をじっと見つめている。
何となく不気味で不安を感じつつ行き過ぎようとした。
と、突然背後から私の頭をめがけて襲いかかってきたのである。
それも二度にわたって飛び掛かってきたからびっくりしたのなんの。
私の白髪頭に黒いカラスが嫉妬したのか、私の頭がご馳走に見えたのかよく判らないが、一瞬の出来事にただ立ちすくむだけであった。
私と目が合わなくなった直後に卑怯にも後ろから飛び掛るとは敵もなかなかの試合巧者である。
野鳥の会会員の私としては立ち向かうわけにもいかず(実際は怖かっただけ)、頭を抱えながらその場を逃げ去った。
不幸な一日の始まりなのか、はたまた吉日の兆しなのか、ともあれヒチコック映画を思い出させる朝となった。

画廊では明日からの望月通陽展の飾り付けが始まっていた。
23年前に静岡のコレクターの紹介で望月氏のアトリエを訪ねて以来のお付き合いで、私の画廊の作家としては最古参の作家となってしまった。
今や美術界は勿論出版界や建築、クラシック音楽の分野でも大活躍の彼だが、その当時と少しも変わらずその謙虚な姿勢に私はぞっこんである。
先ずは作品に惚れ、次には人柄に惚れる事でその作家とは長いお付き合いが出来ると私は思っている。
その望月氏がいつも言うのだが、私があなたは作品はいいが見せ方が拙いと言われたことが深く胸に突き刺さっていて、展示の度に緊張すると。
その事もあってか今回の展示は美術館を訪ねた時のような厳かな雰囲気を醸し出している。
こうした素晴らしい展示が出来たのであれば、私がそれとなく言った一言も彼の成長に一役買ったことになる。
カラスのお陰できっと素晴らしい展覧会の一日が始まることになりそうだ。

6月16日

今日から望月通陽展が始まる。
昨日も書いたが彼は私がかかわっている作家の中でも一番長い付き合いをしている作家である。
その彼がポプラ社のWEBマガジン〜ポプラビーチ「志事人」というサイトのインタビューでうれしい事を語ってくれたのでその一部を引用して紹介したい。

志事人

志に会いに行く。

仕事に誇りを持って
生き生きと輝いている人をみると
なんだかうれしい。
メッセージを伝えたくて、仕事をしている人。
好きな事をやっているうちに、それが仕事になった人。
仕事をするのが楽しくて仕方がない人。
その人たちの心の奥には
どんな思いがあるのだろう。
これは、志をもって仕事をする人たちを紹介する企画です。

――それでは染色の世界では、絵を染める、ということ自体が全く新しいことだったんですか?

そうです。人間国宝の芹沢けい介さんもその頃はまだ絵は染めていませんでした。工芸の世界では当時は絵を染めるのは軟弱なことだと考えられていたんです。その頃は民芸が全盛の時代でしたし、「用の美」という表現があるように、使われてこそ美しい、とされる時代でしたから、そこに絵や詩のような文学的な要素を入れることは受け容れられず、見向きもされませんでした。用途を持たないものは求められない世界だったんです。

――それはまた意外ですね。

意外と言っていただけると、それだけ時間が経ったんだなと実感します。初めて染物の展覧会をやった時に、額に入れた染めの作品を買ってくださったお客さんが、「これはどうやって洗濯したらいいんですか」っておっしゃったんです(笑)。水彩画や油絵を買って、どうやって洗濯をしたらいいかなんて誰も考えないですけどね。だからちょっと道が遠いな、と思ったものでした。

当時の画廊の志には驚きます

――そんなに新しい試みだったのであれば、アーティストとしてやっていくのに困難な時期などあったのでしょうか?

ええ、ありました。「ギャラリー椿」といって、僕が最初に個展を開き、今でもお付き合いをさせていただいている画廊が京橋にあるのですが、そこでお金を借りたこともありました。当時3年がかりである本を作っていて、必死で製作しているうちにお金が全くなくなってしまったんです。妻の目の前で100万円貸してください、と頼んで、本当は恥ずかしかったのですが、妻が帰り道に、ああいうお願い事をできたんだからあなたはもう大丈夫、この道でちゃんとやっていけます、って言ったのには驚きました(笑)。貧乏な作家の女房というのは強いものなのですね。

――でもそれは、作品を生み出すのに是非ともそのお金が必要だし、またそれがあれば必ず確かなものを生み出せるという信頼があったからこそですよね。

まあそうだと思います。それに応えることができる、という自信がないとやはり僕にもそういうお願い事はできませんしね。若くて無鉄砲でもあったのでしょうけど。でも若い作家のそんなお願いを受け容れてくれた画廊の志というものには、思い返すと驚きますし、今でも本当に感謝しています。

――若い芸術家を育てるそういう土壌がその時代はあったのでしょうね。

すでにある程度認知され、評価を得た人の作品を扱うというのが今の堅実な骨董屋や画廊のやり方なわけですが、無名の作家の作品を自分の目で見極めて、発掘し、育てていくというのが本来の画廊のあり方だという気がします。私が芸術活動を始めた80年代は、時代そのものがみんなで芸術や文学といったものに夢を託せた幸せな時代だったのでしょう。それと、現代はアーティストや表現者といわれる人があまりにも多く、ある種の飽和状態だと言えると思います。いくら見極める目を持っていたとしても、その混乱の中で選び出すのは極めて難しい。でもかつては選択肢が少ない中、選ぶ画廊と選ばれる作家の関係はずっと緊密だった。その間の緊張関係というのは、多分今の比ではなかったと思いますよ。若い作家志望者も発表するのが今ほど容易ではないから、本当に熱い志と目的意識をもって製作に向かっていたのでしょうね。

といった話が載っているのですが、詳しくは下記をご覧下さい。
 webマガジン〜ポプラビーチ〜

6月20日

日、月とお客様の招きで35年振りに南紀を訪れた。
大阪の画廊勤務時代に和歌山担当で月に何度も紀伊半島を海岸沿いに車で廻ったものである。
今と違い高速道路のない時代に堺、岸和田、和歌山市内、海南、田辺、白浜、勝浦、新宮までを廻るのは並大抵の事ではなかった。
また温泉地は別として途中途中に泊まる場所がなく、車に高額な絵画を積んでいることもあってガレージがあるラブホテルに泊まる事が多かった。
これは若い私にはかなり刺激的で、周りの息遣いが聞こえてくるようで、一晩中まんじりともする事が出来なかった事が懐かしく思い出される。
生憎関西方面は梅雨に入り強い雨の降る2日間だったが、その方とは親子2代にわたるお付き合いをさせていただいていて、当時の昔話に花が咲き、楽しい二日間を過ごす事が出来た。
帰りに驚いた事に飛行機の中で偶然知人夫婦と出会った。
近くのなんとかランドにいるパンダの赤ちゃんを見に来たのだそうだ。
老夫婦がこうしてわざわざ南紀までパンダを見に行くなんて、なんと仲が良く、ほほえましいい夫婦だとこちらまで暖かい気持ちにさせられた。

6月22日

暑くなると美術品の整理の依頼が来るから不思議だ。
昨年も埃と黴の舞い上がる中を汗だくになって作品を運び出す日が続いた。
ここ2週の間も同じように大汗をかく日が続いた。
昨日と今日は連続で100点以上の作品を運び出すことになり、さすがの私も疲労困憊である。
それも2軒ともたくさんの猫を飼っているお宅で一軒が25匹、もう一軒が10匹いるのには驚かされた。
コレクターとたくさんの猫を飼う事の因果関係を一度調べてみたい。
その猫のおしっこの臭いが生半可でなく、昨日などは暑さと臭いで目眩がしそうだった。
それでも苦労の甲斐あって、今日は思いがけず今活躍中の2,3の作家の代表作を持ってくる事が出来た。
8月のコレクション展とギャラリーオークションを楽しみにしていただきたい。

6月23日

この6月で私どものスタッフ上矢圭子が退職する。
ご主人の転勤に伴いロンドンに行く事になった。
私がオークション会社JAAの社長になる以前からJAAに勤務しその屋台骨を支え、私のところが新しいスペースに移る直前には画廊に来てもらい、それから4年私を助けてくれただけに残念であるが、こればかりは仕方がない。
2,3年で帰国予定のようで、そのあいだにキングスイングリッシュが堪能になって、画廊に戻ってきてくれることを期待している。
この11月には私どもはニューヨークのアートフェアーに参加する予定で、益々語学の必要性に迫られている。
今日からもGTUでニューヨークの作家達の展覧会があり、アメリカ人が何人も来る事になっているが、果たしてどの程度会話できるか心配である。
7月から新たに来る事になっている女性スタッフに期待したいが、彼女も語学のほうはあまり得意ではなさそうだ。
ジュエリーのギャラリー、原美術館などに勤めていた事もあり、画廊の仕事には直ぐに慣れてくれそうだが、是非英語の勉強してもらいたいと思っている。
ともあれ、新しいスッタフ諸田美里を上矢圭子同様よろしくお願いします。

6月24日

7月20日からの大阪のアートフェアーCASOに出展する準備に追われている。
既に数年前から開催されているアートフェアーだが、場所が市内から外れた所にあり、参加を見合わせていたが、今回は中之島や国立国際美術館の近くにある堂島ホテルで開催される事になり、参加を決めた。
東京でも神楽坂にあるアグネスホテルでフェアーが開催され、現代アートを扱う若手画商が参加し、大勢の来場者で賑わった。
そんな事もあって、大阪でもホテルを使ってフェアーを開催する事になったようだ。
ホテルといっても広い宴会場を使うのではなく、各客室を一室づつ画廊が借り上げ、その部屋を展示ブースとして使うのである。
今回は8,9階のフロアーを全部使い26の画廊が参加をする事になった。
普通の客室なので、壁をあまり使う事が出来ず、展示が難しいが、逆手にとって風呂場に立体作品を置くなどホテルならではの展示を考えている。
関西の美術業界は震災以来地盤沈下していて、展覧会を見に来る人も少ないと聞いているが、私がこの仕事についた最初のところでもあり、その当時に御世話になったお客様にも是非見ていただきたいとの思いもあり、頑張ってみようと思っている。
入場料が必要なので、招待券をご希望の方は画廊宛お申し出いただきたい。
但し枚数に限りがあるので、先着順10名までとさせていただきたい。

6月28日

私が参加をしている奉仕団体の会長をこの7月から務める事になった。
20数年勤務した事務員が定年を迎え、私の年度から新たな事務員を採用する事になった。 
果てさてどうしたものかと思案していたが、結局私の画廊に以前務めていた女性にお願いをして働いてもらう事になった。
そんな事で少し安心していたのだが、引継ぎをする時点でさぁ大変。
今まで私の団体では全て事務局任せでやってもらっていた上に、前職が全く引継ぎの業務をしないまま退職金を貰ったらささっと辞めていってしまったのである。
帳面の一つから何処にあるか判らず、年度末にやるべき決算も放り出していってしまったからとんでもないことになってしまった。
この何日か画廊の仕事をほっぽらかして、その事務局で次年度の準備に追いまくられる事になった。
そんなに忙しい事ないからと声をかけた前画廊スッタフにも大変申し訳ないことをしてしまい、合わせる顔がない。
それに引き換え、本日で退職する私のところのスタッフはきちんと引き継ぎをしてくれた。
そうした彼女に昨日今日とたくさんのお客様や作家の方が挨拶に見え、その別れを惜しんでくれた。
どんなに頑張ってくれていても最後の最後が如何に大事かを教えてくれたここ数日であった。

6月30日

いやーきれい・楽しい。
鈴木亘彦の展示が始まった。
彩色された樹脂をガラスの内側に描き込み、ステンドグラスに使うはんだ付けでボックス状に仕上げていく彼独特の技法である。
ガラスの透明性をいかした作品は夏の暑さを忘れさせる一服の清涼感があり、私の画廊では7月に開催される京橋界隈展には欠かせない作家となっている。
言ってみればチューブかサザンといったところだろうか。
今回はジェル状の樹脂の色彩が今までにはない華やかな色づかいとなった。
またガラス画面の反対側に鏡を使い、そこにはカメレオンや蛸、躍動する女性などが描かれ、樹脂の隙間からその形が垣間見えたり、裏側の鏡面を飾るとカメレオン等の隙間から彩られた樹脂が垣間見える、一点で2度おいしい作品になっている。
偶々昨日宇都宮のお客様を訪ねたところ、彼のデビュー作となった樹脂製のアポロ宇宙飛行士があるではないか。
お客様はだいぶ昔に日本橋高島屋のコンテンポラリーアートスペースで開催されていた彼の個展に偶然出くわした。
そのとき衝動買いしたのがその宇宙飛行士の作品であった。
彼が生まれた年に人類が始めて月面に上陸した年という事で、このアームストロング船長の作品が生まれたそうである。
無理を言ってお客様からその記念の作品を譲っていただいたが、その翌日が彼の展示日というのも何かの因縁かもしれない。
理屈抜きに楽しくきれいな展覧会なので、是非納涼も兼ねてお越し頂きたい。

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